情景243【霧雨の日】

 四月四日、午後一時の霧雨きりさめ。海沿いの県道を走っていて脇道に入った。先に車を降り、鈍色にびいろの雲の下で松林を抜けると、砂浜に出る。

「見渡す限りの海と空……」

 なんて、言いたいところだったけれど、

「霧、か」

 海は視界にいくらか広がったところで白くけぶるに呑まれ、伸びた途中でその姿を消している。視線の上半分は白いもや。それが広がる海の先行きを覆い隠していた。

「ん、さむ……」

 ふいに肘を押さえる。音もなく周囲を漂う雨が体に纏わりついていた。雨を浴びている感じはしないのに、髪や服が湿っている。

 背後から、先輩が傘を二本持って歩いてきた。霧雨のせいかな。砂を踏む音がしない。

「傘、いらんの?」

 ——うん。いい。

「いいじゃなくて使いなって。四月って言っても寒いし、風邪ひくやん」

 ——ひいたら仕事を休めるね。

「アホ」

 ばさっと、傘の開く音がした。

「後輩チャンが風邪でダウンしたとしてな、その間の業務をカバーすんのは先輩の俺チャンなんよ」

「じゃあ、俺チャン先輩……。ひとつ良いっスか」

「ああ、なんでもええよ」

「なんでもいいワケないじゃん……」

 でも、言えるだけ言う。

「そこはせめて、『看病するのは俺なんよ』とか言ってくださいよ」

 すると向こうは笑って、もうひとつ傘が開く。先輩の両手に傘が生えた。それから肩を並べて言う。

「まァ、そこはすまん」

「……すまんじゃねぇよぅ」

 ただ、風邪は引きたくないので傘はもらった。

「いいよ。ビニール傘でも」

 その気遣いが嬉しいから。

「そうか。見飽きたら、駅まで送るわ」

「そこは家まで送れっての」

 ふっと噴き出して、ちょっとため息が出た。

 ふたりして、霧雨の日に傘を差して砂浜に並ぶ。お互い無言の中、やがて寄せる波しぶきの音がはっきり耳に届き始めた。

 つい一時間くらい前までのふたりなら、相合傘もできたんだろう。

 目の前の白くけぶるもやが、さっきよりも近くに見える。すっと吸い込んだ空気はどこかしょっぱかった。

 もう、このひとに好きと言う気はない。

 けど、この適度に雑なユルさがなァ……。なんとも私を刺してくるんだよね。

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