情景268【離れたのか、追わないのか】

 そういえば、以前はもっと近くで話していた気がする。

 彼女が隣でこちらを覗くように話しかけるとき、横に掻き分けた長めの前髪や横髪が、地べたに向かって真っすぐ垂れていた。そんな細かい仕草も鮮明に思い出せる。下の名前やあだ名で呼び合うのが普通。——幼馴染だから。

 でも今は、そんな彼女を遠巻きに眺める機会が増えた。


 土曜日の午前中がよく晴れていたものだから、今の内に新刊を買いに行こうと外に出た。玄関に手をついたあたりで、

「あっ、チャリの鍵——」

 きびすを返す。その時、彼女の声が首筋に触れてくる風に乗って飛んできた。

「おはようー」

 どうやら自分を呼んでいるらしい。苗字に君付けで呼びかけながら、手を振ってこちらの玄関に寄ってきた。道端に溜まる陽光がアスファルト地べたを白く眩しいものにしている。

 彼女は玄関越しに、

「おは」

 土曜日らしく元気だった。

「ああ」

 すると向こうは人差し指をピッと立てて、

「ああ、じゃなくてさ。せめて挨拶はちゃんと返したほうがいいよ」

 気のない声色ながら、親切に教えてくれる。

「あ、うん。おはよう」

 ——わかっているのに、うまくいかないな。

 最近の悩み。

「で、どっか行くの?」

「あ、えーっと……」

 話しかけてくれて嬉しいはずだ。なのに、それを悟られないように振る舞ってしまうようクセが、いつしかついてしまっていた。

 右手を首の後ろに回し、少し視線を落とし、ちょっとけだるげに、

「ん、本屋」

 とだけ答える。

「ふーん、いってらっしゃい」

 そのまま彼女が行ってしまいそうだったので、

「あっ、その——」

「ん、なに?」

「……いや、自分はどっか行くの」

「まーねー」

 彼女はさらりとそっぽを向き、横目で自分を捉えてから、

「じゃ、いってきます」

「あ、うん」

 行ってしまった。それから、自転車を出しにガレージへ行く。

 最近の悩み。

 距離を感じる。

 昔みたいに、彼女を下の名前で呼べない。

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