情景171【あいつの匂い】

 ——あっ。

 半開きのクローゼットの前で、手を伸ばして服を漁っていた。そのとき、指先でそれに触れてしまって、漂ってきた匂いに触れて、刹那に思い出す。


 あいつの匂いが染みついたやつは、全部捨てたと思っていたのに。


 都心から電車でいくらか離れたところにある、そう背も高くないマンションの一室。郊外の昼下がりは、なんとも静かで長閑で……肌に冷えた空気の触れる季節になっても、陽光を感じてはつい窓を開けてしまいたくなる。——開けてしまった。


 ベランダに出て、すぅっと、息を深く吸い込む。

「うぅーん、平日の休暇ッ……最高ッ!」

 ——なんて、棚に上げてる場合じゃなかった。

 自分に手に握ったコイツの処遇を考えなければ。


 一本のマフラー。

 これからの季節、きっと必要になるはずのもの。ただ、これを首に巻く気は起きなかった。

 理由は色々。思い出すからとか、匂いがまだ残っている気がするから、とか。

 かと言って、これを今ベランダから投げ捨てられるほど、思い切れるワケでもない。ご近所迷惑だしさ。

 それで、また思考を巡らせる羽目になった。

 そしてまた、あいつの匂いを感じた気がする。

「どうすっかなぁ……。こいつ」

 そっか。前にもそれを決めあぐねたから、クローゼットの奥で眠ってたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る