03-04-07 漢九 党錮名士 4

 桓帝かんていが即位するよりも前、侯爵であったときに「周福しゅうふく」よりの教育を受けていた。即位後に周福を尚書に抜擢した。一方、同郷の「房植ぼうしょく」には周福と同等の名声がありながらも採用されなかった。このため民らが歌う。

「天下の規範は房植どのなのに、帝の師であったために周福殿が選ばれた」

 以降周氏と房氏の賓客はいがみあうようになった。これが甘陵かんりょう県の南北に分かれてのいがみ合いとなった。いわゆる「党人の議」の興りである。

 

 汝南じょなん太守「宗資そうし」が「范滂はんぼう」を部下とした。

 南陽なんよう太守「成瑨せいしん」が「岑晊しんしつ」を部下とした。

 二人の役人はどちらも勧善懲悪を貫いた。特に范滂の剛直さは凄まじく、悪を親の仇のごとく憎んだ。このため汝南南陽の民は歌に歌う。


「汝南の主は范滂どの。宗資はただのイエスマン。

 南陽の主は岑晊どの。成瑨は部屋で歌うだけ」


 太学には学生が三万人あまりおり、首席は郭泰かくたいと「賈彪かひょう」であった。かれらは陳蕃や李膺とともに重んじられており、太学ではこのように噂されていた。

「天下は李膺どのを規範としており、また凶悪な悪には陳蕃どのが立ち向かう」

 こうした風潮は太学の外にも浸透し、皆が競って人物批判をするようになった。



蒙求もうぎゅう

宗資主諾そうししゅだく 成瑨坐嘯せいしんざしょう

 後漢桓帝かんていの時代に郡太守であった宗資と成瑨せいしん。宗資はやりての部下のイエスマンとなり、成瑨はやりての部下にすべてを投げて執務室で歌を歌うだけだった。このことはまちで風刺された。

 やりての部下に任せて名声を落としたふたり。主はその徳によって全てを部下にやらせるとも言われているけど、その辺との食い合わせはどうなんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る