04-02-02 東晋 陶侃 上

 元帝の治世下において、「陶侃とうかん」が都督ととく荊湘等州けいしょうとうしゅう諸軍事しょぐんじに任じられた。


 陶侃は幼い頃に父を喪い、貧乏暮らしでいた。あるとき名士の子弟「范逵はんき」が高官候補となる孝廉こうれんに推薦されたため、都に上ることとなった。孝廉の旅路をサポートするのは誉れとされている。そこで陶侃の家にてもてなすこととなったのだが、貧乏暮らしの陶侃家ではまともにもてなしもできない。すると陶侃の母「湛氏たんし」が髪を切り、これを売って飲食代の足しにしなさい、と言いだした。こうした恩義から、范逵が陶侃を推薦。こうして陶侃の名が知られるようになった。


 永嘉の乱ころ、荊州けいしゅう都督ととくであった「劉弘りゅうこう」に採用された。義陽ぎようの「張昌ちょうしょう」、江東こうとうの「陳敏ちんびん」、湘州しょうしゅうの「杜弢ととう」と言った各地の反乱を鎮圧し、江夏太守こうかたいしゅを経て荊州刺史けいしゅううししにまで立身するも、王敦おうとんからは邪魔者と認識され、広州刺史こうしゅうししに左遷された。


 陶侃は任地にて、毎朝百のかめを抱えて建物の外に出し、夕方になるとその瓶を建物の中にしまっていた。いったい何をしているのか、と聞かれると、こう答えた。


「吾はそのうち中原のために力を尽くさねばならなくなるであろう。その時に備え、鍛えておるのよ」


 やがて陶侃は荊州刺史に復帰。州民は男女の別なく慶賀した。



蒙求もうぎゅう

陳遺飯感ちんいはんかん 陶侃酒限とうかんしゅげん

 東晋末に起こった、孫恩の乱。この討伐に駆り出された陳遺は炊き出しの窯の底にこびりついたお焦げが大好きで、お焦げをとにかく集めていた。やがて敗北、軍が散り散りになると陳遺はその集めたお焦げで食いつなぎ、無事に家に戻る。陳遺を心配していた母は心配のあまり視力を失っていたのだが、陳遺の帰還を知ると視力を取り戻すのだった。

 東晋初期を代表する名将のひとり、陶侃。彼は若い頃酒による失敗をしでかしており、母と一定以上の酒は飲まないようにすると約束し、以降それを高官になっても貫き通した。

 食べ物飲み物が結ぶ、母との縁。

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