04-02 東晋漸損

04-02-01 東晋 成帝司馬衍

 成帝せいてい、名は司馬衍しばえん。母は庾文君ゆぶんくん庾亮ゆりょうの妹である。5 歲で即位し、王導おうどうや庾亮が政の補佐をし、輔政。庾文君もまた朝見に参列した。


 歴陽れきよう蘇峻そしゅんが謀反を起こした。

 蘇峻は以前に臨淮りんわいを守っており、王敦おうとんが再び玉座を狙わんとしたとき、防衛に入り功績を挙げていた。以降その武威や信望が高まり、歴陽に赴任となったそばからその兵はよく鍛え上げられ、武具もまた磨き上げられていた。一方で朝廷を軽んじるところがあり、各地の亡命者を招き入れては匿っていた。

 そこへ庾亮が石頭城せきとうじょうの修繕及び防備充足のため蘇峻を召出し、大司農だいしのうに任じた上任務に当たらせようとした。結果、蘇峻は挙兵し、またたく間に姑孰こじゅくを陥落させる。

 尚書令しょうしょれい卞壼べんこんは兵を率い抵抗を試みたがあえなく戦死。その二人の子も後を追った。卞壼の妻はその遺体をなでさすり、言う。

「父は忠臣となり、子は孝子となりました。なにを恨みましょう」


 庾亮は西方に逃亡。蘇峻の兵はついに建康城内に乗り込んでしまった。しかし間もなくして陶侃とうかん温嶠おんきょうが兵を率い入城。蘇峻を討伐した。


 温嶠おんきょうが死亡した。

 はじめ劉琨りゅうこんに仕えていたが、使者として江南こうなんの地に送り込まれた。温嶠の母はこの旅立ちに反対し、温嶠の袖を掴み、食い止めようとした。対しかし温嶠は自らの袖を裂き、去った。

 江南の地に到着すれば、もはや情勢が北地への帰還を許さない。このため温嶠は最期までそのことを悔いていた。

 温嶠は晋室維持のため働いた。王敦おうとん蘇峻そしゅんいずれの平定も、温嶠の尽力があればこそであった。


 石勒せきろく趙天王ちょうてんおうを、そして間もなくして帝を自称した。

 石勒が死ぬと、子の「石弘せきこう」が立った。


 陶侃とうかんが死亡した。


 石虎せきこが主の石弘を殺害。趙天王ちょうてんおうを自称。石勒の子孫を皆殺しとした。


 王導おうどうが死亡した。

 庾亮が死亡した。


 慕容皝ぼようこう燕王えんおうに封じた。


 成帝は位にあること 18 年であった。勤勉倹約の徳を貫いた。死亡時二人の子供、「司馬丕しばひ」「司馬奕しばえき」がまだ産着にくるまっているような状態であったため、同母弟の「司馬岳しばがく」が帝位を継承した。康帝こうていである。



蒙求もうぎゅう

杜后生齒とこうせいし 靈王出髭れいおうしゅつし

 杜皇后は東晋とうしん成帝せいていの皇后。あの杜預とよの曾孫だ。美人だったが歯がなかったため、結婚ができなかった。しかし成帝との成婚が決まると歯が生えてきたという。

 また前 601 年に「周にヒゲの王が生まれる。彼は国をよく治めるだろう」と予言が下された。そして約三十年ほどして生まれた霊王は生まれながらにしてヒゲを蓄えていた。実際に彼の治世は比較的安定したものになったという。

 政治の中枢に立ち、栄えたふたりの霊異譚ですね。

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