04-08 斉梁

04-08-01 斉七 高武明・魏孝文

 南斉なんせい太祖たいそ高帝こうてい蕭道成しょうどうせい蘭陵らんりょう人である。かん相国しょうこく蕭何しょうかの子孫と伝わる。冷静沈着にして度量が深く、博学にして文章をよくした。肩には赤い日や月状のアザがあった。そうの時代に軍中に長く勤め、人々はその異相にただ者ではないと話しあっていた。このため宋より疑われていたが、結局殺すことができなかった。

 結果として蕭道成は宋より帝位を引き継いだ。質素倹約の日々を貫き、人々にはこのように語っていた。

「わしに天下を十年治めさせてもらえれば、黄金を土くれと同じくらいに価値のないものとしてやれるのだが」

 結局在位四年で死亡し、太子が立った。武帝ぶていである。


 武帝の名は蕭賾しょうさく。即位十一年で死亡した。太子の蕭長懋しょうちょうぼうが既に死亡していたため太孫の蕭昭業しょうしょうぎょうが立った。廃帝はいてい鬱林王うつりんおうと呼ばれる。即位一年で西昌侯せいしょうこう蕭鸞しょうらんに殺された。新安王しんあんおう蕭昭文しょうしょうぶんが立った。廃帝はいてい海陵王かいりょうおうである。蕭鸞は自らを宣城王せんじょうおうとし、即位して四ヶ月と経っていなかった、廃帝を廃位殺害し、自身が即位した。明帝めいていである。


 明帝は高帝の兄の子に当たる。高帝は自らの子以上に明帝を愛していた。しかし武帝の太子であった蕭長懋よりは憎まれていた。このため自身が実権を握ったそばから高帝、武帝の子孫をひとり残らず殺し尽くした。即位五年で死亡した。太子が立った。廃帝はいてい東昏侯とうこんこうである。



 なおこの頃北魏ほくぎでは孝文帝こうぶんていが死亡していた。在位二十七年、仁孝恭倹の徳に満ち、礼楽を大いに整え、北魏に太平の風を吹かせた。胡服や胡語を禁じ、姓を拓跋たくばつよりげんに改め、洛陽らくように遷都した。まさしく魏における盛徳の主と言うべきである。太子の元恪げんかくが立った。宣武帝せんぶていである。

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