04-08-02 斉七 東昏公・和帝

 東昏侯とうこんこうは名を蕭宝巻しょうほうかんと言う。東宮にあった頃から学問を擲ち、節度なく遊びほうけていた。即位しても朝士に接見することはなく、嬖臣や倖人ばかりを信用し、しばしば大臣を誅殺した。また姦淫に溺れ、寵愛していた潘妃はんひの足元に金でできた蓮の花びらをばら撒き、その上を歩かせて、うそぶく。

「これぞ歩みて蓮の花を生ず、であるな!」


 政務は全て側近に放り投げたため、各地で賊徒の暴虐が甚だしくなっていった。太尉たいい陳顕達ちんけんたつが挙兵し建康けんこうを襲撃するも敗死した。将軍の崔慧景さいけいけいなどは反乱の鎮圧を命じられて出兵した先にて叛旗を翻し、やはり建康に迫った。この時、南豫州刺史みなみよしゅうしし蕭懿しょういが兵を率いて建康そばにいた。東昏公は蕭懿に慌てて迎撃を命じた。崔慧景は敗死し、蕭懿は尚書とされた。


 蕭懿の弟、南雍州刺史みなみようしゅうしし蕭衍しょうえんは人を遣わせ、兄に言う。

伊尹いいん霍光かくこうに倣うべし、さもなくば速やかに歴陽れきように戻るべきである、中央にあってはならない」

 そのどちらも実行しないうちに蕭懿もまた自殺に追い込まれた。このためついに蕭衍が襄陽じょうようにて決起、兵を率いて東下し建康を包囲した。斉の宮人はついに東昏公を殺害の上蕭衍を奉迎した。東昏公の在位は三年であった。このときすでに東昏公の弟である南康王なんこうおう蕭宝融しょうほうゆうが帝位即位を自称していたため、そのまま皇帝として迎え入れられた。和帝かていである。


 和帝は東昏公の末年に皇帝を名乗り江陵こうりょうで起兵していた。東昏公が殺されたあと、建康城では蕭長懋しょうちょうぼうの妃であった王氏おうしが太后として皇帝代理の座につき、蕭衍を相国しょうこくとし、梁公りょうこうに封じ、九錫きゅうしゃくを与え、更には爵位を王に進めた。

 和帝はようやく姑孰こじゅくに到達したところで詔勅を下し、梁に禅譲した。即位後わずか一年で殺された。


 ここに斉は高帝こうていより七代、二十三年で滅んだ。

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