04-06 劉宋

04-06-01 宋五 武帝劉裕 上

 南朝は晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳と伝わった。

 北朝は諸国が魏としてまとまると、その魏が西魏東魏に割れた。東魏から北斉に伝わり、西魏から後周に伝わった。後周は北斉を併合したのち隋に伝わり、隋が陳を滅ぼした。こうして南北が再び一つになったのである。

 ここでは南朝を節分けの基準とし、その間に北を書く形とする。


 宋の武帝、劉裕。彭城人である。漢の高帝劉邦の弟、劉交りゅうこうの子孫、とされている。劉裕が産まれると母が死亡、このとき父は彭城から京口に疎開し、仮住まいをしていたのだが、劉裕を捨てようとした。それを生母の妹が救い出し、乳を与えた。

 成長すると壮健にして大志を抱くも、知っている字は僅かであった。その幼名を寄奴という。

 かつて旅行中大蛇に遭遇、劉裕は蛇を攻撃、傷を負わせる。のちに蛇を傷つけた場に赴いてみれば、子供たちが杵で薬を搗いていた。一体何をしているのかと劉裕が問えば、子供たちは答える。

「我らの王が劉寄奴に傷つけられたのだ」

 劉裕は問う。

「なぜ寄奴を殺さんのだ」

 子供たちは答える。

「寄奴は王者であるから死なんのだ」

 劉裕が子供たちに怒鳴りつけると、彼らは散り散りばらばらになり、いなくなった。


 司馬道子らの乱政により晋の政が乱れた。建康より東方の沿岸地域の治安は最悪となり、その中より妖賊の「孫恩そんおん」が民心の動揺に乗り、海に浮かぶ島を根拠地として乱を起こした。

 劉牢之りゅうろうしの率いる孫恩討伐軍に従軍。賊の偵察を命じられたのだが、賊数千人と遭遇してしまう。劉裕は長刀を振るいひとり突っ込んでいく。他の軍たちもその勢いに乗じて攻撃を仕掛け、賊を大破。劉裕はこれによって名を知られるようになった。

 孫恩はしばしば劉裕によって攻め破られ、ついには海に身を投げて死んだ。配下の「盧循ろじゅん」「徐道覆じょどうふく」が乱を継続した。


 桓温の息子「桓玄かんげん」が東晋に反旗を翻した。司馬元顕しばげんけんを、次いでその父である司馬道子しばどうしを殺害。相国しょうこく楚王そおうとなると、九錫きゅうしゃく禅譲ぜんじょうを安帝に強要した。

 しかし、すぐさま劉裕が京口けいこうにて桓玄討伐のため決起。桓玄軍と戦う。桓玄は逃亡、そのさなか殺された。

 安帝が復位すると、劉裕は京口の守将に任じられた。

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