04-06-02 宋五 武帝劉裕 下

 劉裕りゅうゆうが実権を握ったころ、南燕なんえんしんとの国境地帯を荒らし回っていた。このため討伐の軍を立ち上げた。劉裕は広固こうこを陥落させ、慕容超ぼようちょうを捕らえ、建康けんこうに送り込み、処刑させた。


 盧循ろじゅんが劉裕の北伐に乗じて番禺ばんうより進軍、建康を強襲した。劉裕は急遽の呼び出しを受け帰還、諸軍を率い防衛戦を繰り広げ、盧循を退けることに成功した。

 劉裕は追撃を掛け、盧循をさらに交州こうしゅうまで追いやった。交州刺史こうしゅうししが盧循を殺し、その首を建康に送った。


 後秦で姚泓ようおうが立つと、劉裕は早速討伐に動いた。彭城ほうじょうを出て洛陽らくようを経由、武関ぶかん潼関どうかんもそれぞれの軍に突破させ、長安入り。姚泓は敗北を悟り投降した。劉裕は姚泓を建康に送り、殺させた。ここに後秦は滅んだ。


 長安を狙う勢力が他にもいた。赫蓮勃勃かくれんぼつぼつである。こうした赫連勃勃の動きを肌で感じていた関中の識者らは、劉裕が東晋に帰ろうとしていると聞き、駐屯所の軒先にやって来て、涙しながら言う。

「この地に残された民は王の徳に浴すること叶わぬまま百年を過ごして参りました。みな、はじめて衣冠を見にお着けになったお方を目の当たりとすること叶い、喜び合っております。公はそんな者たちをお捨てになり、どちらへ行かれようというのですか?」

 劉裕は彭城に帰還した。間もなくして長安は赫連勃勃の手に落ちた。


 東晋朝廷は劉裕を相国しょうこく宋公そうこうとし、九錫きゅうしゃくを加えた。劉裕は予言書に「昌明しょうめいの後なお二帝あり」と書かれていたことに則り、人を遣わせ安帝の首をくくらせた。昌明は孝武帝の字である。そして弟の恭帝きょうていを立てた。

 恭帝が即位した翌年、劉裕を宋王そうおうに進爵した。さらに翌年、恭帝より簒奪。間もなくして殺した。


 劉裕は在位 3 年で死んだ。太子が立った。「廃帝はいてい滎陽王けいようおう」である。

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