02-05-02 漢三 武帝劉徹 2

 武帝ぶていは自らの老儒者である申公しんこうを出迎え、世の統治と争乱との境目について問う。申公はすでに八十歳を超えていたのだが、こう答えている。

「言葉はどうでも良い、いかに実践するか、である」


 前 138 年、南東の民、閩越びんえつがその北に住まう東甌とうへいに攻撃を仕掛けた。救援の軍を出し、東甌の民を淮水わいすい長江ちょうこうとの間に移住させた。

 武帝は民間人の振りをして市井を視察して回った。蕭何しょうか劉邦りゅうほうに「民に貸し与えるべき」と提案した上林苑じょうりんえんを改めて庭園とした。

 前 136 年、五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)博士を設置した。

 前 135 年、閩越が、今度は南の南越なんえつに攻撃を仕掛けた。武帝は「王恢おうかい」らに討伐をさせた。


 前 134 年、各地から孝廉を一人ずつ推挙させた。

 前 133 年、方士の「李少君りしょうくん」が武帝にまみえ、その奇怪な語り口にて武帝の意に適った。このような内容だ。

「かまどの神を祀れば、意中の人物に会えましょう。丹砂を練って黄金とした器で酒を飲めば、蓬萊ほうらいの仙者の姿を目の当たりとできましょう。その後に封禅ほうぜんの儀式を執り行えば、不死に至りましょう」

 武帝はそれを信じ、自身でかまどをまつり、方士を海に遊ばせて蓬萊島の安期生あんきせいなる仙人を探し求めさせた。やがて武帝のもとには海のほうから北というえんせい出身のうさんくさい連中がたむろするようになった。


 武帝は王恢の発案を受け、王恢らに匈奴きょうど討伐に出向かせた。将兵を馬邑ばゆうのそばの谷間に潜めさせ、「聶壹じょういつ」に匈奴を谷間に誘い出すように密かに指示した。ただし当時の単于はすぐにこの作戦を察知、撤収した。ここに匈奴との和親は破棄され、匈奴はしばしば国境付近の城塞を攻撃してくるようになった。

唐蒙とうもう」が南夷の討伐を申し出てくる。武帝もそれを認可し、千人の兵を与え、夜郞やろう国に攻撃させた。夜郞侯は漢に服従すると約束した。夜郎国は犍為けんい郡に改称された。

 また「司馬相如しばしょうじょ」に西夷と交渉させ、きょうさくぜんぼうに郡県を配した。

 これらの動きにより、漢の版図は西は沫若水ばつじゃくすいにまで至り、南は䍧牱そうかにまで至り、それぞれに国境を引いた。



蒙求もうぎゅう

相如題柱しょうじょだいちゅう 終軍棄繻しゅうぐんきじゅ

 前漢武帝に仕えた司馬相如はしょく出身の人。蜀から立志を夢見て都に向かうとき、都に至る橋、昇遷橋しょうせんきょうの柱に「四頭引きの馬車に乗れるような士大夫となれるまで、故郷には戻らぬぞ」と書き付けたのだそうだ。

 同時代の、やはり文人である終軍は武帝より招集を受けて東方から函谷関入りするときに繻、すなわち割り符を渡された。返ってきた際にこれを見せろ、と言うのだ。すると終軍、「ふざけんな俺は立身するんじゃ、こんな割り符で照合される必要のない高官になってやるわい」と割り符を投げ捨ててしまったそーである。こ公共物破損ンー!!!

 不退転の立身の志を背負った、同時代の二人。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る