02-05-03 漢三 武帝劉徹 3

 武帝ぶていは官吏、庶民の別にかかわらず、現在の庶務に通じたり、あるいは過去の聖王の術に通じたものを見出し、招集した。またそういった者が都に向かうための旅費、食費は各地の郡県に負担させ、また郡県の出納帳を管理するものと同道させた。こうして招集を受けたもののうち、「公孫弘こうそんこう」が上申している。

「人主たるもの上は徳に合致し、下は民衆の心と合致し、これによって人々の心は和みその気力は調和されます。さすれば表にあらわれるものも調和され、上がってくる声も調和され、かくして天地も調和されるに至ります」

 他のものも様々に奏上したが、公孫弘の奏上こそが第一であるとされた。

 またせいの「轅固えんこ」は九十歳を超えていたが、賢良であると言うことで招集されていた。公孫弘は直接轅固を見ないようにして轅固に仕えた。轅固は公孫弘に言う。

「公孫先生、正しき学びをお言葉となされよ。ご自身の学びを曲げ、世におもねってはなりませぬぞ」


 前 129 年、商人の輸送状況を調査し、課税基準を設けた。匈奴きょうど上谷じょうこくに攻撃を仕掛けてきたので「衛青えいせい」らを派遣し撃退した。

 前 128 年に「主父偃しゅほえん」「厳安げんあん」「徐楽じょがく」らが匈奴征伐の無謀を上奏してきた。武帝は彼らを召喚し、「なぜそなたらといままで会えずにおったのか」と郞中として召し抱えた。

 秋や翌年年明けにふたたび匈奴が攻め入ってきたため、衛青に撃退に出させた。オルドスの地を獲得、フフホト市の近くに朔方郡を置いた。


 前 124 年、公孫弘を丞相とした。武帝は国土拡大の意見を募るため賢人らを招集した。

 匈奴が朔方さくほう軍を攻撃。再び衛青が撃退した。帰還したところで、衛青は大将軍に任じられた。匈奴が代郡に侵入した。前 123 年になると衛青が向かい匈奴を撃退した。夏に再び派遣された。


 前 122 年、「張騫ちょうけん」を西方に派遣した。

 前 121 年、「霍去病かくきょへい」を驃騎将軍とし、匈奴を破り、焉支えんし祁連きれん山を獲得して帰還した。

 匈奴の渾邪王こんやおうが降伏した。五つの属国を置き、そこに匈奴らを住まわせた。

 三年、匈奴が右北平みぎほくへい定襄ていじょうに侵入した。

 四年、衞靑と霍去病に匈奴を討たせ、霍去病は狼居胥ろうきょしょ山にて祭礼を行ったのち帰還した。

 方士の李少翁りしょうおうが武帝を騙した咎で処刑された。



蒙求もうぎゅう


魏儲南館ぎちょなんかん 漢相東閣かんしょうとうかく

 魏の初代皇帝曹丕は南館にて文学の士と交流した。漢の武帝に仕えた公孫弘は東閣にて国を支えるべき人士らと交流を深めた。

 人材を集め、育てることを象徴する、二つの時代の二つの館。


衛青拜幕えいせいはいまく 去病辭第きょへいじだい

 衛青は匈奴討伐の陣幕内で大将軍の地位を拝命した。ちなみにこれが「幕府」の語源になっているという。霍去病は武帝より邸宅を下賜されたとき「匈奴も滅ぼし切れていないのに邸宅になぞ住まってはおれません」と下賜を辞退した。

 匈奴との戦いに全てを捧げた裂帛の二人。ちなみに叔父甥の関係でもある。


伏波標柱ふくはひょうちゅう 博望尋河はくぼうじんが

 後漢初期の伏波将軍、馬瑗ばえんは老いてなお南方の蛮夷を伐たんと出征。本人は暑さにたたられて死亡してしまうのだが、南方に柱を立て、後漢の南方への支配拡大の証を示した。

 前漢武帝の時代、張騫ちょうけん博望はくぼう侯に封じられた。武帝に命じられ西方に出立、多くの国との通商交渉をなし、その足跡はついに黄河こうがの河源にまで至った、とされる。

 漢の版図を大きく押し広げた二人の足跡。

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