04-03-11 晋四 前燕・前涼

 穆帝ぼくていの時代、えんでは慕容皝ぼようこうが死亡し、子の「慕容儁ぼようしゅん」が立った。冉閔ぜんびんを打ち倒すと、皇帝を自称した。

 慕容儁が死亡し、子の「慕容暐ぼようい」が立った。


 司馬奕の時代、燕は桓温かんおんの確保していた洛陽らくようを陥落させ、守将を殺した。この事態を受け、桓温が出陣。枋頭ほうとうにて戦い、桓温軍を大いに破った。


 燕将の「慕容垂ぼようすい」は、桓温を破ったことによりその威名が日増しに盛んとなったが、そのために慕容暐より忌避されるようになった。このため慕容垂は前秦に出奔した。

 秦将の王猛は諸将を率い燕の討伐に向かい、遂に燕の都であるぎょうを包囲した。苻堅もまた鄴入りし、ついには慕容暐を捕縛。燕は滅亡した。



 涼州りょうしゅうでは張重華ちょうじゅうか涼王りょうおうを自称していた。

 恵帝けいていの時代に涼州刺史りょうしゅうししであった「張軌ちょうき」はその威信を西方の地に轟かせていた。懐帝かいていが劉聡の手に落ちると、張軌は兵を発し、長安ちょうあん愍帝びんていを助けようとした。このため愍帝よりは涼州牧りょうしょうぼく西平公せいへいこうとされた。

 張軌が死亡するとその子である「張寔ちょうしょく」が立った。

 張寔が妖賊によって殺されると、弟の「張茂ちょうも」が立った。劉曜による攻撃を受けたため、張茂は降伏した。

 張茂が死亡すると、張寔の子である「張駿ちょうしゅん」が立った。張茂からは、臨終の床において「必ずや晋を奉じるべし、誤ってはならぬ」と言い残されていた。張駿は石勒に臣従を誓っていたとは言え、内心そのことを恥じていた。そこで成帝の時代、しょくルートを用いて東晋と通じたのである。

 その張駿が死に、張重華の時代にいたり、東晋から改めて西平公せいへいこうに封じると使者を送ったにもかかわらず、張重華は王を自称したのである。


 張重華が死亡すると、子の「張曜霊ちょうきれい」が立つも、臣下に廃され、「張祚ちょうそ」が立った。しかし張祚ちょうそは淫乱、残虐。このため配下に殺され、子の「張玄靚ちょうげんせい」が立てられた。

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