03-08 蜀漢

03-08-01 漢一 昭烈帝劉備

 劉備りゅうび益州えきしゅうを獲得すると、孫権との同盟は決裂した。荊州けいしゅうは両名によって引き裂かれた。


 劉備りゅうびは更に漢中かんちゅうを獲得。劉邦りゅうほうと同じ漢中王かんちゅうおうを自称する。関羽かんう江陵こうりょうから出立、樊城はんじょうを攻撃の上、襄陽じょうようを獲得した。曹操そうそうの根拠地であるきょより南の勢力は、何かあればすぐさま関羽に呼応するような状態となる。


 しかし、このころ親劉備派の魯粛ろしゅくが死亡。反劉備派の急先鋒である呂蒙りょもうがそのあとを継ぎ、孫権に対して関羽を討つべく勧めていた。そこで曹操が樊城に援軍を送って関羽の正面を釘付けにしたのを見計らい、陸遜りくそんにもまた関羽を攻撃させた。関羽は狼狽して逃げようとしたが、孫権軍がついに関羽を捕らえ、斬った。

 こうして荊州が孫権の手に収まった。


 220 年、曹操が死亡。あとに曹丕そうひが立つと献帝けんていより簒奪、かんを滅ぼした。劉備のもとには献帝が殺されたと誤報が入った。そこで劉備は喪を発し、喪服に袖を通し、献帝に蜀漢独自の諡として愍帝びんていと諡し、四月に、武擔ぶせんの南にて漢帝の跡を継ぐ、と宣言。帝位についた。大赦をなし、章武しょうぶと改元した。

 諸葛亮しょかつりょうを丞相、「許靖きょせい」を司徒に任じ、宗廟を建て、劉邦以下の歴代漢帝を祀った。夫人「氏」を皇后とし、子の「劉禅りゅうぜん」を皇太子とした。


 劉備は関羽が殺されたことを恥じ、自らその敵討のために出陣した。孫権は和睦を求めたが、聞き入れない。劉備は巫峽ふきょうから夷陵いりょうに出、数十もの陣営を結んで呉軍と数ヶ月間対峙した。すると陸遜が現れ、瞬く間に四十あまりの陣営を攻略。劉備は夜陰に乗じ、ほうほうの体で逃れた。


 222 年 4 月、劉備が死亡した。在位は 3 年。劉禅が即位した。諸葛亮を武鄕ぶきょう侯とした。

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