02-08-02 新六 王莽 中

 18 年、「揚雄ようゆう」が死亡した。成帝せいていの代に賦を奏上して郞となり、以後三代にわたって給事黄門として仕え、王莽おうもうが簒奪をなすと、その忠勤が讃えられて大夫となった。かつて揚雄は手を変え品を変え王莽の功績をたたえる文章をものしていた。果てには伊尹いいん周公旦しゅうこうたんレベルの人物だ、とさえ言い出す。

 そんな揚雄に「劉棻りゅうふん」と言う弟子がいたが、王莽を打倒する謀議に絡んだかどで処刑されていた。弟子の謀反謀議の罪が自分にも及ぶと恐れた揚雄は天祿閣てんろくかくから身を投げて死のうと思ったが命を取り留めた。王莽はその罪を不問とし、かくて揚雄は寿命で死んだのである。


 瑯琊ろうやで「樊崇はんすう」が、東海とうかいで「刁子都ちょうしと」らが挙兵した。更に 22 年、樊崇の率いる兵らは眉を赤く染め、赤眉せきびと自称しはじめた。


 緑林兵が分かれ、下江かこう新市しんしに出向いた。荊州の平林へいりんでも決起があった。

 漢の宗室である「劉縯りゅうえき」と、その弟の「劉秀りゅうしゅう」が舂陵しゅんりょうにて決起すると、新市や平林の兵は彼ら兄弟のもとについた。



蒙求:


孟軻養素もうかようそ 揚雄草玄ようゆうそうげん

孟軻(史記)&揚雄(前漢)

 孟子は士官を志したけどことごとく失敗した。そんな孟子が著書に「我善養吾浩然之気」、朴ではつらつとしたエネルギーをってるよ、と語った。

 一方の揚雄は前漢末の人。当時の貴顕にもおもねることなく、儒教華やかなりしころ道家の教えを貫き、太経を起した。

 時流にうかつに乗らず、己が学問を貫いたふたりだ。


不占隕車 子雲投閣

 せい荘公そうこうが臣下に殺され、城内は大混乱! 陳不占ちんふせんは恐怖で全身ガタガタ震えながらも、君主の一大事に駆けつけなくてどうする! と車に乗り込んだ。しかし恐怖のあまり車の中で死んだ。えっ。

 揚雄、あざなが子雲。前漢の大学者である。王莽と同僚的な立場であったが、弟子が簒奪する姿勢に断固として反対。そのとばっちりで収監されそうになった。逃れられないと悟った揚雄は窓から身を投げて自殺を図る。重傷こそ負うも失敗。

 片や忠義のため死地に赴かんとして死ぬ、片や死地から逃れようとしておめおめと生きながらえる。なんとも対照的な死に様と生き様。

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