02-05-05 漢三 武帝劉徹 5

 武帝ぶていは苛烈な法によって民を統制し、酷吏を好んで用いた。東方に盜賊がしばしば発生すると、豪奢な衣服に身を包んだ使者に斧を持たせて派遣した。彼らには郡太守以下を切り捨てても良いという許可が与えられた。

 四年、李広利りこうり匈奴きょうどを攻撃するも敗北した。


 前 94 年、武帝は東方を巡幸。瑯琊ろうやを経て海に出、帰還した。

 前 93 年、再び東方に巡幸、泰山たいざんふもとの明堂を祀り、封禪の儀式をなした。


 前 91 年、巫蠱ふこ事件が発生した。武帝は甘泉宮かんせんに向かっていたが、「江充こうじゅう」に取り調べの全権を与え、調査にあたらせた。すると皇太子の宮殿の下から呪いを掛けるための木の人形が多く掘り出された。太子の「劉拠りゅうきょ」は無実の罪による摘発処断を畏れ、食客に身分を偽らせて江充の元に出向かせ、捕らえ、殺した。その後母である「衛氏えいし」の元に出向いてあらましを打ち明け、戦車を用意し、弓の巧みなものを載せ、武具を揃え、長楽宮ちょうらくきゅうの兵に与えた。武帝は甘泉宮から戻ると長安ちょうあん近辺の兵を招集、丞相の「劉屈𣯛りゅうくつごう」に率いさせた。一方の劉拠も反乱軍を率いて進軍。両軍は五日間戦い、死者は数万にも及んだ。皇后は自殺し、劉拠は亡命、県で首をくくって死んだ。後に高祖廟を守る「田千秋でんせんしゅう」が言う。

「白髪の老人が私に教えてくださいました、子が父の兵を弄んだときの罪は鞭打ちであり、死刑ではない、と」

 この言葉に武帝ははっとし「これは高祖廟の神霊よりの警告なのではないか?」と思い直す。間もなく劉拠が誣告を受けただけであったと判明、歸來望思の台を湖県に建立した。天下の民は劉拠のために嘆き悲しんだ。


 前 90 年、匈奴を李廣利に迎撃させたが敗れ、捕らわれた。

 前 89 年、方士や候神人を罷免した。田千秋を宰相とし、輪臺りんだいにおける屯田策を撤回したのち、これまでの所業を謝罪した。


 前 87 年、危篤に陥り、「霍光かくこう」に太子を補佐するよう命じた。



蒙求もうぎゅう

衛后髮鬒えいこうはっしん 飛燕體輕ひえんたいけい

 前漢武帝の衛皇后はその髪の艶やかなるをもって武帝に寵愛された。なおのちに皇太子の誣告事件に巻き込まれ自殺している。

 同じく前漢、成帝の皇后であった趙飛燕。彼女は妹の趙女弟とともに、たぐいまれな踊りの才能を示して成帝に寵愛された。が、子をなすよりも前に成帝が死亡。一説には趙女弟といたしていたときに腹上死したと言われている。このため趙女弟は自殺。趙飛燕はその後も漢の政争の場に立ち続けたが、ついには王莽との政争に負けて自殺した。

 出自によらずその姿、そのスキルで皇帝の寵愛を得たふたり。悲劇的な最期も共通している。


馮異大樹ふういたいじゅ 千秋小車せんしゅうしょうしゃ

 馮異は光武帝こうぶていに仕えた雲台二十八将の第七席、つまりトップ名将の一人。にもかかわらず謙譲を旨とし、皆が論功行賞について語っているところ、一人木の下でたたずんでいた。配下の兵たちはみな馮異の下でこそ働きたいと願い出たという。

 田千秋でんせんしゅうは特に取り柄があるわけでもなかったが、武帝が讒言によって皇太子を殺してしまったことの非をただ一人武帝に指摘した。これによって武帝ははっとなり、田千秋に感謝の意を示した。また田千秋を宰相に取り立て、足腰が弱っていることを理由に車椅子に乗っての参内が許された。

 え、どういう二人……? あえて言えば慎ましさがすごく、皇帝に寵愛された、とかそんな感じ?

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