03-01-10 漢六 光武帝劉秀10

 32 年、光武帝こうぶていは自ら隗囂かいごう討伐に出ようとしたが、潁川えいせんにて群盗が発生したため帰還、寇恂こうじゅんに言う。

「潁川は洛陽らくように極めて近い。きみしか奴らを平定はできまい。とは言えいまや九卿の座にある君を地方統治に向かわせてしまって良いものか」

 すると寇恂は、むしろ陛下が穎川に申請なさるべきです、と勧めた。進言のとおりにすると、群盗らはたちまち光武帝に降伏した。光武帝の軍は戦わずして帰還を果たした。

 寇恂は最後まで地方官を拝任することはなかったのだが、過去に仮措置として地方官にしたところ、執政期間を終え帰ろうとするときには、その道を民が塞ぎ、「どうか寇恂様をあと一年お貸し下さい」と訴え出てきた。そこで寇恂も一年留まり、政務を継続した。


 33 年、隗囂が死亡した。隗囂は更始こうし帝の初年に起兵し、光武帝が即位に至るまで天水てんすいを拠点とし、西州上将軍を自称していた。


 36 年、公孫述こうそんじゅつが滅んだ。公孫述は茂陵もりょうの人で、更始帝の時代にはしょくに拠って帝を自称、国号をせいとしていた。


 ここから、一度隗囂や公孫述について語っていこう。



蒙求もうぎゅう

寇恂借一こうじゅんしゃくいつ 何武去思かぶきょし

 光武帝が誇る雲台二十八将のひとり、寇恂。彼は地方鎮撫に優れた手腕を誇った。ある地方の乱を光武帝が寇恂とともに平定、帰還しようとしたとき、民らは「寇恂様を一年、この地方の長官としてお留めください」と嘆願したという。

 前漢成帝せいていの時代、しょくで公平な人物の推挙をなした何武は、はい郡でも、中央でもはやり公平な推挙をなした。中央では儒者と官吏との間を取り持ったりもしたが、最終的には王莽おうもうに忌まれ、自殺に追い込まれている。

 その公平さを慕われたふたり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る