02-04 文景の治・呉楚七国の乱
02-04-01 漢二 文帝劉恒 上
あるとき千里馬を献上するものがあった。しかし文帝は言う。
「余の行幸に際しては多くの者を付き従え、一日に五十里を行き、行軍であれば三十里をゆくくらいのもの。千里も走る馬に乗り、一人どこへゆくというのだ」
そして旅費を渡した上で馬を返却、さらには献上品を受け取るつもりはない、と大々的に表明した。
文帝は政務について懸命に学んだ。そこで周勃に一年の裁判の数、金銭食料の出納について問うた。周勃は何一つ答えられず、恥じ入り、背中に冷や汗を流した。同じことを陳平に問うと、陳平は答えた。
「物事には責任者がおります、裁判について問われるのであれば廷尉に、金銭食料は治粟內史にお問い合わせなされませ」
「では、貴公は何を司るのだ?」
「陛下はかたじけなくも、罪人たるこの身を宰相におつけくださいました。宰相とは上は天子を補佐し、人材を適所に配し、四季のもろもろごとに従い、下はあらゆるものが適切に運用されるよう整え、外においては四方の蛮族を寧撫し、內には民を心服させ、卿大夫にそれぞれの職務を全うさせることを司ります」
文帝はこの発言に満足したが、一方の周勃は何も答えられなかったことに恥じ入り、間もなく病と称して引退した。
陳平が死んだ。
前 178 年、年貢を半減させた。
賈誼は早熟の天才で帝よりの覚えもめでたかったのだが、あるとき不幸を呼ぶ鳥、鵩を目撃してしまった。その後三十三才の若さで夭折した。
荘子は田舎で悠々自適の暮らしをしていたが、あるとき宮廷よりの召喚を受ける。荘子はそれを蹴った。いわく、「何が悲しゅうて生贄の牛になりにいかにゃあかんのだ」と。
共に抜群の知恵を備えた天才。そして動物の姿に、己が凶兆をみたわけだ。
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