02-04-02 漢二 文帝劉恒 中

 前 177 年、「張釈之ちょうしゃくし」が廷尉となった。文帝が中渭橋ちゅういきょうを渡らんとしたときに一人の人間が橋の下から走り出た。文帝の乗る車を引く馬が驚き、跳ね上がった。男はすぐさま捕まえられ、廷尉に引き渡されたが、張釈之は罰金刑が相応しい、と上奏。文帝は「それでは量刑が軽いのではないか」と不服であったが、張釈之は言う。

「法に基づけばこの量刑が妥当なのです。それを越えて罰しようとすれば、法が軽んぜられることになります。廷尉の役目は常に法が公平であるよう保つこと。一度でも公平さを失えば、みなが傾いた法に基づいて判断し始めましょう。そのとき民がどれだけ安心して暮らせるようになりますか?」

 文帝はしばし考え込むが、言う。

「廷尉の言葉はもっともである」

 また劉邦りゅうほうの霊廟から玉環を盗むものが現れ、廷尉に引き渡された。張釈之の量刑は公開処刑、であった。文帝は激怒し言う。「よりにもよって先帝の供え物を盗むのだぞ、その不敬には一族皆殺しが妥当ではないか! 法がそう語るとて、これでは先帝を奉りたいと願う我が意に沿わぬ!」

 張釈之は答える。

「宗廟の宝を盗むことで族滅を始めてしまったら、もしどこぞの愚か者が高帝陛下の陵墓を荒らしでもしたときに、いかなる刑をお加えになるというのですか?」

 文帝、この発言ももっともであるとした。


 前 174 年、文帝の弟、劉長りゅうちょうが謀反を起こすも失敗。王位を廃され流罪となったが、その途上にて死んだ。民の間では「兄弟ならばわずか一尺の布とて分け合い、一斗のアワとて分け合えよう。陛下と劉長さまがお持ちのものはその日でもあるまいに」と歌われた。それに悩んだ文帝は劉長の四人の子を侯爵に封じた。


 冒頓単于ぼくとつぜんうが死亡した。


 これより以前、文帝が賈誼かぎを高位に据えたいと提案した。しかし大臣の多くがそれに反対。結局賈誼は要職につけられず、文帝の息子らの教育係に着けさせるしかなかった。賈誼は上奏して言う。「お国の現状を見るに痛哭すべき点が一つ、悲しきことが二つ、懸念する点が六点ございます」


 前 170 年、文帝の母の弟「薄昭はくしょう」がかんよりの使者を殺した。文帝は直接手に掛けることをためらい、あえて高官を多数を薄昭の家に派遣、慟哭させた。この様子を見て薄昭は自殺した。


 前 168 年、民の年貢を半分とした。

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