02-04-03 漢二 文帝劉恒 下

 前 166 年、食料庫を司る淳于意じゅんういが処刑相当の罪を犯した。これに対し娘の淳于緹縈じゅんうていえいが上書して言う。

「死者が復活することはありません。斬られた身体が戻ることもありません。ならばどうか、この私の身を奴婢として取り上げ、父の罪をあがなわせてくださいませ」

 その訴え出に文帝は感じ入り、以後肉刑、すなわち身体欠損刑は撤廃された。

 この年もやはり年貢が半減された。


 前 164 年、新垣しんえんと言う男が取り立てられ、文帝にあることないことをささやき改元させたが、翌年には身分偽装が露見、誅殺された。


 前 158 年、匈奴きょうど上郡じょうぐん雲中うんちゅうに攻め入ってきた。文帝は周勃しゅうぼつの息子「周亜夫しゅうあふ」に細柳さいりゅうを、「劉礼りゅうれい」に霸上を、「徐厲じょれい」に棘門きょくもんを守らせた。自らも軍の慰問のため霸上や棘門に出向いた。


 前 157 年、文帝が死亡した。

 在位の間宮殿や庭園、それどころか馬車や衣服に至るまで新しく作ることもなかった。あるとき宮殿にバルコニーを新設したいという話が出たので工匠に見積もりを取らせたところ、百金がかると算出された。それを聞き文帝は設置を取りやめとしている。「中流人の家十軒分の費用ではないか! そんな財産を傾けて設けられるものか」とのことである。

 寵愛するしん夫人とともに素朴な衣服を身にまとい、質朴さの率先垂範をなした。

 王「劉濞りゅうび」(のちの呉楚ごそ七国の乱の首謀者)が体調不良と偽って参内しなくなったときにはあえて不問とし、肘掛けを送った。

張武ちょうぶ」が賄賂を受け取ったとき、文帝はあえて張武に褒美を下賜したため、自らの貪欲な行為に恥じ入り、行いを改めた。

 文帝の意図は民の徳化であった。そのため当時の公卿や大夫は風流篤厚、人の過ちをあげつらうのを恥とした。上流から下流にまで文帝の意図は行き渡り、このため国内は大いに安定した。人々には家が行き渡り、不自由なく暮らしていた。これだけの平和な時代は後世にもあり得なかったほどである。霸陵はりょうに葬られ、太子が卽位した。のちの「景帝けいてい」である。

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