02-03-22 漢一 陳平・周勃

 陳平ちんぺいは貧乏暮らしの中でも読書を好み、地元の祭の取り仕切りをしたところ、その手腕が優れたものであったため村の長老に讃えられた。そのときにふと陳平は「私ならば天下もこの祭のように取り仕切れるのだが」と嘆じたという。

 はじめ魏咎ぎきゅうに仕えたのたが重用はされず、次いで項羽こううに仕えたところ罪を得たので逃亡。そうして劉邦りゅうほうの元に亡命した。「魏無知ぎむち」の取りなしで劉邦と会見。その側仕えとして軍を取り仕切る役に抜擢された。しかし「周勃しゅうぼつ」が言う。

「陳平の風采は見事なものですが、中身は空です。家では兄の嫁と姦通をし、魏でも重用されず、でも重用されず、その末にここにやって来ています。ここでも諸将より賄賂を得ていると聞きます。どうかお考え直しください」

 そこで劉邦、推挙者の魏無知を咎め立てた。すると魏無知はこう返してくる。

「私が陳平を推挙したのはその能力ゆえ。品行ゆえではございません。劉邦様が仰っておられるのは品行のことでしょう。この状況にあって、無能な奉公者を抱えておる余裕はございますまい」

 そこで劉邦は陳平の地位をやや引き下げることにした。その後諸将からの不満はなくなった。


 楚漢戦争では張良ちょうりょうとともに多くの軍略を劉邦に提案、採用されている。例えば項羽と范増はんぞうの離間、韓信かんしんの斉王受任、項羽の徹底撃滅、韓信の捕縛作戦などである。また匈奴きょうどとの戦いでも七回ほど劉邦を助ける計略を発した。その都度陳平の封爵地が加増された。


 劉邦が死に、惠帝けいていが立つ。また蕭何しょうか曹參そうしんも追うように死亡。王陵おうりょうが右丞相、陳平が左丞相となった。周勃が大尉となった。恵帝が死ぬと、呂雉りょちの権勢が始まる。陳平はあえて呂雉の行為を咎めなかった。


 しかし前 180 年に呂雉が死亡すると、周勃とともに呂氏一門の撃滅を果たし、劉恒、のちの文帝を皇帝に推戴した。陳平が左丞相、周勃が右丞相ととなった。

 文帝は政務について懸命に学んだ。そこで周勃に一年の裁判の数、金銭食料の出納について問う。周勃は何一つ答えられず、恥じ入り、背中に冷や汗を流した。同じことを陳平に問うと、陳平は答えた。

「物事には責任者がおります、裁判について問われるのであれば廷尉に、金銭食料は治粟內史にお問い合わせなされませ」

「では、貴公は何を司るのだ?」

「陛下はかたじけなくも、罪人たるこの身を宰相におつけくださいました。宰相とは上は天子を補佐し、人材を適所に配し、四季のもろもろごとに従い、下はあらゆるものが適切に運用されるよう整え、外においては四方の蛮族を寧撫し、內には民を心服させ、卿大夫にそれぞれの職務を全うさせることを司ります」

 文帝はこの発言に満足したが、一方の周勃は何も答えられなかったことに恥じ入り、病と称して引退した。


 間もなく、陳平は死んだ。



蒙求もうぎゅう

陳平多轍ちんぺいたてつ 李廣成蹊りこうせいけい

 陳平は劉邦りゅうほうのもとで多くの献策をした大功臣だが、その交友はド派手なものだった。陳平の家の前にはつねに多くの金持ちの人間が訪れるため、轍がたくさん残されていたという。

 武帝ぶていに仕えた将軍李広りこうは篤実な人柄であった。口数は多くないが、スモモの木の下に自然と道ができるように、彼を慕う者はたくさんいたという。

 ハデハデ交流と、質朴交流の対比。


周勃織薄しゅうぼつしょくはく 灌嬰販繒かんえいはんかい

 周勃、灌嬰は、ともに劉邦りゅうほうに仕えて功を挙げ立身している。そしてその出自は二人とも機織りものを編む職人出身である。楚漢そかんドリームの体現者ふたり。


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