02-03-21 漢一 呂太后 下

 恵帝けいていは前 188 年、在位七年で死んだ。子はなく、呂雉りょちは恵帝と宮女との間の子「劉恭りゅうきょう」を太子扱いして即位させ、自らがその代行として朝廷に顔を出すようになった。


 前 187 年、呂雉は自らの同族を王位に立てたい、と言い出す。王陵おうりょうが反対して言う。

高帝こうていはかつて白馬をいけにえに捧げ、盟約をお立てになりました。りゅう氏にあらざる者が王となるようであれば、天下は共にこれを撃滅すべしと」

 しかし陳平ちんぺい周勃しゅうぼつは呂雉に賛成。そのため王陵は罷免され、呂氏が王位につけられた。


 前 184 年、呂雉は劉恭を廃位の上殺害。恵帝の子とも出自不明の子とも言われる劉義りゅうぎを皇帝につけ、「劉弘りゅうこう」と改名させた。


 前 180 年、呂雉が死亡した。呂氏一門は謀反を目論み、「呂祿りょろく」が北軍を、「呂產りょさん」が南軍を率いた。周勃は太尉でありながらも実権を奪われていたため軍を動かすことが出来ないでいた。そこで陳平と周勃は呂祿の友人である、酈食其れきいきの甥の酈寄れききに呂祿を説得させ、かれのもつ将軍の印綬、すなわち北軍の兵権を周勃に与えさせた。周勃は北軍の前に立つと、言う。

「劉氏につくものは左袒せよ」

 すると兵たちはみな片方だけ着物を脱ぎ、左肩をあらわとさせた。周勃は「劉章りゅうしょう」に兵千名を与えて南軍を攻撃、呂產を討ち果たさせた。更に手分けして呂氏一門こととごとく捕らえ、老若の別なく殺した。


 諸大臣は劉邦の息子の一人である「劉恒りゅうこう」を後継者として迎えようとしたが、劉恒は西に向けて三度辞退の意思を表明。その後南に向けて更に二回辞退したが、最終的には皇帝に即位した。呂雉によって皇位につけられた劉弘は誅殺された。



蒙求もうぎゅう

酈寄賣友りきばいゆう 紀信詐帝きしんさてい

 劉邦りゅうほう亡きあと権勢を握った、呂雉りょち。彼女が死んだ後、漢室を傾けかけた呂雉の一族は誅殺される。このとき呂氏一門の呂禄りょろくと友人であった酈寄は、呂禄を欺いて漢に売り、呂氏誅滅の功績を得た。このため「酈寄は友人を売ったのだ」と言われた。

 劉邦が項羽に包囲を受けたとき、紀信は自分が囮になるうちに逃げよと、劉邦の衣服、馬車を譲り受け、それらを用いて項羽の前に降伏。それが本物かどうかを項羽が確認している隙を見て、劉邦は包囲から脱出した。その後紀信は項羽に焼き殺された。

 漢室を守るための詐術を操ったふたり。

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