03-01-21 巻七 光武帝劉秀17

 当時の州牧・郡守・県令はみな良吏であった。


 潁川えいせんを守る「郭伋かくきゅう」は洛陽らくよう近郊の都市を守る者として精勤。光武帝こうぶていは郭伋を労って言う。

黄河こうがが九里を潤し、洛陽はその恩恵を被っている」


杜詩とし」が南陽なんよう太守となると、地元のものは言う。

宣帝せんていの時代には父のごとき召信臣しょうしんしん様がいらっしゃったが、いままた母のごとき杜詩様にお越し頂けた」


張堪ちょうかん」が漁陽ぎょよう太守となると、地元のものは言う。

「桑には余分な枝も着かず、麦の穗からは更に穂が出ている。作物もこの統治を祝うかのようだ。張堪の政のおかげで、我らが安楽の尽きることはない」


劉昆りゅうこん」が江陵こうりょう令となると、あるとき火事が起きた。劉昆は火事に向けて自らの政の不徳を謝罪した。すると風向きが変わって火が消えた。のちに虎の害に苦しんでいた弘農こうのうの太守となったときには、その政のために虎たちが黄河の向こうに逃げ去ったという。光武帝が問う。

「どんな徳を施せば、このような結果を招けるのだ?」

 劉昆は答える。

「ただの巡り合わせでしょう」

 光武帝はコメントする。

「なるほど、これがと有徳のひとの言葉なのだな」

 そうして、この言葉を記録させた。



蒙求もうぎゅう


郭伋竹馬かくきゅうちくば 劉寬蒲鞭りゅうかんぶべん

 王莽おうもうの時代、郭伋が任地に赴任したとき各地にて深い恩徳を授けた。光武帝こうぶていの時代にも再び并州に赴任。彼の赴任を聞いた数百ほどの小さな子が竹馬に乗り、郭伋を歓迎した。

 後漢桓帝かんていの時代、劉寬は南陽なんよう太守として赴任、温厚寛容な政を布いた。部下に過ちがあったときにも蒲鞭、すなわちススキの花のようなもので打ったため、みな痛みは覚えず、ただ罰を受けた屈辱のみを胸に抱えた。

 寛大な恩徳を示した名地方官たち。


張堪折轅ちょうかんせつえん 周鎮漏船しゅうちんろうせん

張堪(後漢)&周鎮(世説)

 後漢の時代に匈奴きょうど勢力圏に接する漁陽ぎょように赴任した張堪は信賞必罰を旨として官吏や民の仕事を奨励し、匈奴が襲いかかってきてもその指揮力で撃退した。こうして漁陽を大いに栄えさせたのだが、帰還時にはまともに荷物も抱えず、長柄の折れた粗末な車に乗っていたという。

 東晋とうしんの時代、名士と呼ばれていた周鎮だが、そのたたずまいはきわめて簡素なものだった。自らの持つ船もきわめてみすぼらしくて狭小、雨漏りもひどいものだった。しかし周鎮はその状況にさしたる不満も抱かなかった。

 清貧を貫き、志を全うした二人。


孟嘗還珠もうしょうかんしゅ 劉昆反火りゅうこんはんか

 後漢の役人、孟嘗は南方の町、合浦ごうほに赴任。そこでは農業こそされていないものの海から多くの宝玉が産出されており、それを元手にした交易で食料を得ていた。ところが孟嘗の前任者がこの宝玉を独り占めし、合浦の民が飢えるようになった。孟嘗は赴任した側からさっそくこの宝玉を変換、流通を再開。これによってたちまち慕われるようになったが、本人はそうした形での慕われ方を嫌い、身を隠すのだった。

 同じく後漢の劉昆は有徳の人であった。あるとき火事があったのでそちらに向けて叩頭すれば火事がやむし、別のところで虎の害が激しかったのにかれが赴任すると虎は逃げ去った。「どうすればそんな真似ができるのだ」と光武帝が聞くと「ただの偶然です」と返した。

 際立った治績をおさめながらも、どこまでも謙虚であった二人。

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