02-09-07 蒙求 下2

桓典避馬かんてんひば 王尊叱馭おうそんかぎょ

 後漢末の宦官たちが幅を利かせる宮廷にあり、桓典は真っ向から宦官に逆らった。そのため七年ほど要職から干されていたという。だので人々は極力桓典の乗る馬を避けようとした。

 前漢の王尊は益州えきしゅうの長官に任じられ、任地に向かう。その道すがら、険阻な道にさしかかる。ここは昔のひとも引き返した道ですので行くのを諦めましょう、と御者が怯えると、忠義の士がお役目を全うせず逃げ出せなぞせぬ! と御者を叱り飛ばし、進ませた。

 自らの使命のためには危険をも厭わぬふたり。



楚元置醴そげんちれい 陳蕃下榻ちんばんかとう

 劉邦りゅうほうの弟である、劉交りゅうこう。彼は酒をたしなまない臣下のために、宴会が開かれるときには常に別に甘酒を用意させていたという。

 後漢末、党錮とうこの禁に関与した烈士、陳蕃ちんばん。彼はいわゆる高名の士とは付き合おうとせず、名はなくとも志操高きもののためにのみ腰掛けのベンチを差し出し、もてなしたという。

 名声ではなく、尊敬するものに対しての敬意を示すふたり。



孔融坐滿こうゆうざばん 鄭崇門雜ていすうもんそう

 後漢末の名士孔融は多くの人士を愛した。閑職に追いやられていても、彼の開催する宴には多くの才覚あふれる若者たちが集っていたという。しかし面と向かっては短所を、当人のいないところでは長所を言うようなスタンスであったため、ついには曹操に嫌われ、殺された。

 前漢哀帝あいていに仕えた鄭崇はバリバリに諫言をなすひとであった。しかし哀帝が寵愛する者たちの害まで諫言したため嫌悪される。哀帝よりお前はライバルを潰してのし上がりたいのかと問われたため「我が心の門は開け放たれておりまする」、つまりひたすら衷心よりの諫言であると主張したが聞き入れられず、獄死した。

 諫言をなした賢臣の哀れな末期。

 


王陽囊衣おうようのうい 馬援薏苡ばえんいい

 琅邪ろうや王氏の祖とも言える前漢昭帝しょうてい時代の名士王吉おうきつ、あざな子陽しよう。その子や孫は大官にいたり豪奢を極めたのだが、彼らの立身の礎を築いた王吉自身は常に慎ましさを維持していた。人々はかれが子孫のための黄金を作った、と讃えた。

 後漢光武帝こうぶていを補佐したことで知られる馬援は北ベトナム方面に赴任し、そこで多くの珍宝を見出したものの、持ち帰ったのは土地特産の木の実のみであった。

 下手な蓄財を避けることによりかえって栄誉を後世に残したふたり。


茍弟轉酷きょくていてんこく  厳母埽墓げんぼそうぼ

 西晋末、かの石勒をもビビらせた名将苟晞がとる政務は酷薄の一言に尽きた。やがてその弟である苟純こうじゅんが兄の後任となったのだが、その政務は更に酷薄なものとなった。

 前漢宣帝せんていの時代に河南かなんを統治した厳延年の統治もまた酷薄なものであり、多くの犠牲者を出した。やがて漢室に対する誹謗の発言などもあり処刑されるのだが、それより以前に母親より「お前のような非道な者とはともにおれぬ、私は実家に帰り先祖の墓を清めておく」と、ほぼ縁切りのような宣告を受けている。

 酷吏たち。ちなみに苟晞と厳延年は、ともに「屠伯とはく」というえげつねえ二つ名で呼ばれています。

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