03-04 桓帝劉志

03-04-01 漢九 桓帝劉志 1

 桓帝かんてい、名は「劉志りゅうし」。147 年、15 歳で即位した。梁冀りょうきは新帝を擁立した功績から封爵地を加増され、子弟もみな公爵に封じられた。

李固りこ」や「杜喬ときょう」は先代質帝しつていのいとこにあたる劉蒜りゅうさんを皇帝にせんと目論んだが、桓帝の即位に伴って劉蒜は侯に降格され、自殺した。李固、杜喬も収監され、死んだ。


 潁川えいせんの「荀淑じゅんしゅく」は幼い頃から博学で徳高い振る舞いをなし、李固や李膺りようらより師として仰がれていた。朗陵ろうりょうの統治をなせば「神君」と讃えられた。

 八人の子がおり、時の人は彼らを八龍と呼んだ。特に六番目の「荀爽じゅんそう」、あざな慈明じめいが聡明であり、「荀氏八龍、慈明無双」と讃えられていた。

 県令は、こうした荀淑の名声から、昔いた名士の高陽こうよう氏に八人の優れた子がいたのに掛け、荀淑の住まう村を高陽と改名させた。

 荀爽が李膺の車の御者として働いた。荀爽は帰宅すると「李様の御者として働くことができた」と喜んだ。


 同じく潁川人の「陳寔ちんしょく」は、荀淑と声明を等しくしていた。陳寔が荀淑の家に訪問するとき、長子の「陳紀ちんき」が御者となり、次子の「陳諶ちんしん」がそこに添乗した。孫(陳紀の子)陳群ちんぐんはいまだ幼かったため、陳寔に抱かれて車中にあった。

 荀淑の家に到着すると、八龍が代わる代わる現れて陳寔に挨拶する。孫である荀彧じゅんいくもまた祖父である荀淑の膝の上に抱かれていた。


 陳寔が荀家に訪問した日、星見が桓帝に報告した。

「徳星が現れました。五百里以内のどこかで、賢人たちが集ったことでしょう」


 陳寔がかつて大丘だいきゅう県の長となったとき、徳ある政を行い、町は清められていた。県吏や民は陳寔の解任後も陳寔の治世を追慕した。

 あるとき陳紀の子と陳諶の子とが陳寔にそれぞれの父のどちらが優れていたかを問う。陳寔は答える。

「兄、弟と区分けするには勿体ないほどだ」



蒙求もうぎゅう


慈明八龍じめいはちりゅう 禰衡一鶚でいこういちがく

 後漢末期の名士、荀爽じゅんそう。彼は八人兄弟で、揃って「八龍」と呼ばれていたのだが、その中でももっとも才覚優れているといわれていた。

 後漢末のフリーダムオッサンにして抜群の文人、のちにいろんなひとから嫌われまくって殺される禰衡さんであるが、孔融こうゆうからは「百の猛禽が集まってもあの一羽のミサゴにすら敵わない」と激賞されていた。

 数多なす名士の中でも、彼は飛び抜けた。


黃向訪主おうしょうほうしゅ 陳寔遺盜ちんしょくいどう

黃向(後漢)&陳寔(後漢)

 後漢人の黄向は道ばたで金の入った袋を拾ったが、ネコババせず持ち主に返したという。

 後漢後期の名士、陳寔が統治した町は徳によって治まった。そんな陳寔の家に盗賊が押し入ってくるのだが、陳寔は「やむにやまれぬ事情があるのだろう」と盗賊を諭し、改心させてしまった。

 盗みはイクナイ。


荀陳德星じゅんちんとくせい 李郭仙舟りかくせんしゅう

 後漢桓帝かんていの時代、潁川えいせん陳寔ちんしょく親子、荀淑じゅんしゅく親子が一堂に会した。親子揃って当時一流の名士であり、このとき都では「潁川に徳の星が集結しました」との報告が上がった。

 同じく桓帝の時代、当時の名士である李膺は多くの人に慕われていたが、里帰りするときに船に乗せたのはただひとり、同じく名士の郭泰のみだった。このとき岸辺から見送った者たちは、まるで仙人の乗る船のようだ、と語ったという。

 抜群の名士たちの交わり。

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