02-06-06 漢四 宣帝劉詢 3

 北海ほっかい太守の「朱邑しゅゆう」は治績、徳行ともに第一等の評価を得ていた。そこで朝廷入りし、太司農に任じられた。


 また渤海ぼっかい太守の「龔遂きょうすい」も水衡都尉として招聘された。

 さきごろ渤海で飢饉による群盗が発生したとき、宣帝せんていの前に召し出された龔遂は徳治の実践のため最大限の裁量権委任を請願、宣帝もそれを許可した。龔遂は郡に到着すると群盗討伐軍を解散させ、農具を持っている者を良民、武器を持っている者を盗賊と見なすと表明。そしてひとりで群盗が実効支配していた太守府に乗り込んだ。盗賊らはその度胸に驚き、即時解散した。

 民のうち武具を持っている者に対しては武具を買い取った上で牛を与えた。決め台詞は「なんでお前らは腰に牛をぶら下げておるのだ」であったという。更に郡内各地を巡察し、良民を慰撫して回った。

 こうして渤海郡の蓄えは充実し、犯罪訴訟も激減した。龔遂の中央召喚はこの治績が認められてのものである。


 いっぽうで前 65 年には京兆けいちょう尹の「趙広漢ちょうこうかん」を処刑している。はじめ潁川えいせんの太守であった趙広漢は、潁川の豪族が私党を組み好き勝手なことをしていたので、相互密告制度を設け、これら豪族を解散させた。その実績が買われ京兆尹、つまり長安ちょうあんの長官となったのだが、やはり長安でも似たような手腕で悪事を暴き出した。その手腕は「鉤距こうきょ」と呼ばれている。これらによって長安の治安は劇的に改善されたのだが、その功績を憎む者より讒言されてしまったのである。民は趙広漢の無罪を嘆願したが、結局趙広漢は腰斬とされた。人々は趙広漢を慕って歌を歌ったそうである。


尹翁帰いんおうき」は右扶風みぎふふうの長に任じられた。もとは東海太守であった。このとき東海人の「于定国うていこく」が尹翁帰に東海の人士をもろもろ採用して欲しいと説得したが、終日かけても尹翁帰は首を縦には振らなかった。なので于定国は同郷の子弟らに言う。「あのお方は実に賢明なお方だ、お前たちがあの方の下についたところで、任務をこなし切れはすまい。あのお方に私情は一切通じぬ」と語った。右扶風では抜群の治績を上げた。



蒙求もうぎゅう

廣漢鉤距こうかんぐきょ 弘羊心計こうようしんけい

 前漢宣帝の時代の趙広漢は首都の統治者として漢代一とすら言われるほどの人で、不正や犯罪を強力に取り締まった。特に鉤距、すなわち潜入調査が非常に得意であったという。っが、宣帝のお気に入りまで処罰してしまったため、ついには腰斬刑を受けた。

 桑弘羊そうこうようは前漢武帝ぶていの時代、暗算術の巧みさでもって高位にたどり着いた。そして財政の逼迫を立て直すための苛烈な徴税策を次々と打ち立てた。昭帝の時代に謀反を起こし、処刑された。

 うーん、これは「そのすげースキルを活かしてひどいことをした」ふたりと言うことになるのかなあ。


龔遂勸農きょうすいかんのう 文翁興學ぶんおうこうがく

龔遂(前漢)&文翁(前漢)

 前漢宣帝せんていの時代、渤海ぼっかいで飢饉による群盗が発生。龔遂は群盗討伐軍を解散させ、民のうち武具を持っている者に対しては武具を買い取った上で牛を与えた。決め台詞は「なんでお前らは腰に牛をぶら下げておるのだ」であったという。こうして武力なしで群盗を鎮めた。

 前漢武帝ぶていの時代、しょくに赴いた文翁は蜀の学問の遅れを見て取り、蜀の民のうち才覚あるものを次々に長安に送り込んで学ばせ、戻ってきた者たちを取り立てて統治に当たらせた。こうして蜀の地の学問が盛んとなった。

 見事な地方統治を行ったふたり。

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