04-01-02 東晋 元帝司馬睿 下

 祖逖そてきの憂慮は的中。王敦おうとんが乱を起こす。


 元帝げんていが江南の地にたどり着いて間もなくのころ、王敦はいとこの王導おうどうとともに、思いをひとつとして元帝の補佐に当たっていた。王敦が軍事を統べ、王導が政を担当する、といった具合である。このため二人の配下や子弟たちが多く枢要の座を固め、ときの人たちは「王と馬とが天下を共にす」と語っていた。王敦はこうした功績に溺れ好き放題をするようになり、元帝は恐れ、憎むようになった。

 そこで元帝は「劉隗りゅうかい」や「刁協ちょうきょう」を腹心として引き入れ、少しでも王氏の権勢を抑え込もうと考えた。これにより王導もまた徐々に疎外されるようになった。


 その結果、ついに武昌ぶしょうにて王敦を決起させるに至ったのである。その名目は劉隗や刁協の誅殺であった。

 劉隗や刁協は元帝に王氏を皆殺しとすべく勧めるが、元帝はそれを許さない。そこに「周顗しゅうぎ」よりの説得があり、王導については赦免。ただし王敦軍の矢面には立たせた。


 刁協や劉隗らは王導とは別に兵を動かしていたが、どちらも大敗。城に逃げ帰った。この事態を受け、元帝は百官を石頭に出向かせ、王敦に謝罪を申し出た。王敦は周顗らを殺害し、元帝に謁見することなく兵を返し、武昌に帰還した。


 元帝は憂いと怒りから病を得、遂に死亡した。在位は 6 年であった。太子の「司馬紹しばしょう」が立った。明帝めいていである。



蒙求もうぎゅう

周侯山嶷しゅうこうさんぎ 會稽霞舉かいけいかきょ

 東晋初期の名臣、周顗。自他共に厳しいひとであり、そのありようはまるで切り立った岩山のようである、と評されていた。

 東晋簡文帝、司馬昱。皇帝になる前に会稽王であった彼の存在は実にたおやかなものであり、ピリピリした宮中の緊張感も、彼が現れることで朝靄が立ちこめるかのごとく和らいだという。

 東晋名臣たち、そのありよう。

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