04-01-03 東晋 王導 1 

 司馬睿しばえい謀主ぼうしゅとなっていた、王導おうどう

 もともと司馬睿の江南こうなんにおける名声は軽く、呉人は司馬睿に帰順しなかった。しかし王導が呉の名族を引き入れた。「顧栄こえい」「賀循がじゅん」「紀瞻きせん」らがその代表格である。そうして新旧の名族を引き入れることにより、旧呉の名族らは皆司馬睿に帰服した。

 更にその後、中原からの亡命者である「庾亮ゆりょう」や「卞壼べんこん」ら百名あまりを登用。これら人材は百六掾ひゃくろくえんと呼ばれた。

桓彝かんい」が中原の乱を避け長江を渡り、司馬睿に接見した。その柔弱ぶりを目の当たりとし、桓彝は不安を隠しきれずにいた。しかし王導と会見をすれば、会見後に顔を合わせた「周顗しゅうぎ」に言う。

「江南の地に管仲かんちゅうがいると聞いていたが、なるほど。あのお方がいるのであれば、この国の行く末を憂える必要もあるまいな」


 永嘉えいかの乱によって中原の混迷は加速し、留まることを知らない。司馬睿のもとにこぞった名士たちは新亭しんていで宴を開いたが、その中で周顗がすっくと立ち、嘆息をまじえつつ、涙をこぼしながら、言う。

「目の当たりとする景色に、際立って中原と違ったところもない。だと言うのに、それでもなお黄河こうがの景色と長江ちょうこうの景色が同じであると言い切るわけにはゆかぬのだ」

 すると、王導が言う。

「いまは晋室復興のために力を尽くすべきである。楚地に逼塞していることを嘆いてみたところで、何ほどの実効があろうか」


 愍帝びんていの死を受け、司馬睿が即位。とは言え王氏の権勢を恐れた元帝は徐々に王導や王敦から実権を剥ぎ取りに掛かり、結果王敦の乱を招くこととなった。



蒙求もうぎゅう


謝安高潔しゃあんこうけつ 王導公忠おうどうこうちゅう

 東晋後期の大宰相謝安は 40 歳になるまで仕官せず、東方で清高潔癖な暮らしを貫いた。

 東晋を打ち立てた大宰相王導は、多大な功績こそ挙げたものの常に皇帝を最優先とする姿勢を貫いた。

 東晋のふたりの大宰相、その性質は結構反対。


顧榮錫炙こえいしゃくしゃ 田文比飯でんぶんひはん

 顧栄こえい出身の西晋せいしんの名士。西晋で焼き肉パーティーが開催されたとき、肉を焼く係のひとが肉を欲しそうにしていたので彼にも食わせてあげた。参加者は「そんな下男に恵みを与えてどうするのだ」と笑ったが、のちに八王はちおう永嘉えいかの争乱で中原が爆発したとき、顧栄はまさにその肉焼き係のサポートのお陰で難を逃れ、呉に帰還出来た。

 斉出身の戦国四君、孟嘗君もうしょうくん=田文は多くの食客を抱えたが、かれらとまったく同じレベルの食事をしたのだという。そういうこともあって多くの食客に慕われた。

 卑しい身分の人たちとも、食のレベルでは対等であり続けたふたりの名士のお話。


賀循儒宗がじゅんじゅそう 孫綽才冠そんしゃくさいかん

 東晋はじめの人、賀循。彼はその学識、その節義高き振る舞いより朝廷の人々より大いに頼り、敬われていた。

 東晋中期の文人、孫綽。彼はもろもろオモシロ行動の目立つ人であったが、その文才が当時において抜きん出ていたため、重んじられていた。

 突き抜けたふたり。性質は真逆。


王敦傾室おうとんけいしつ 紀瞻出妓きせんしゅつぎ

 東晋初期に大きな存在感を示した、王敦。彼ははじめ多くの側妾を抱え込んでいたのだが、あるひとにそれを諫められたため、突然全員を屋敷から追い出した。

 東晋初期の名臣の一人、紀瞻の家にいる踊り子に、周顗がベタ惚れして連れ出そうとした。この振る舞いが罪に問われたと言うことなので、もしかしたら周顗によって連れ出されてしまったのかもしれない。ただ、周顗の才能が惜しいと言うことで、罪は不問となった。

 安定の女性の扱いの軽さ。

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