04-01-05 東晋 祖逖・劉琨

 永嘉えいかの乱によって中原の混迷は加速し、留まることを知らない。そのような中、洛陽らくようの「祖逖そてき」は幼い頃から大志を抱いていた。かつて「劉琨りゅうこん」とともに寝ていたとき、夜中に鷄の声が響く。祖逖は劉琨を蹴り起こし、言う。

「おい不吉な声だぞ」

 そしてその不吉さを振り払うかのように舞い、やがて長江を渡った。


 江南に至ると、祖逖は司馬睿しばえいに兵を求めたが、司馬睿に北伐を行おうという意思がない。与えられたのはわずか兵千人。武器防具の支給もない。祖逖はそれでも長江を北に渡る。中ほどまで至ると、竿にて水面をたたきながら、言う。

「この祖逖、中原を清む能わずして再び長江に赴くは、この川に身を投げんがためと思われよ」


 劉琨が死亡した。先に語った通り、祖逖と近しい間柄であった。劉琨は知人に語っていたことがある。

「つねづね、祖どのがわしに先鞭をおつけになるのでは、と心配でならぬのだ」


 劉琨は懐帝かいてい愍帝びんていの時には幷州刺史へいしゅうししに任じられていた。劉琨が軍を率いて出撃したとき、その副官が石勒せきろくに降ってしまう。それを受け、薊城しょうじょうに詰めていた幽州刺史ゆうしゅうししの「段匹磾だんひつてい」は人をやって劉琨を迎えさせ薊城に招き、そこで血の杯を交わし義兄弟となり、ともに晋を支えるべく誓い合った。

 しかし薊を奪わんと目論むものが劉琨宛てに内応を誘う手紙をよこしてきた。この手紙が警邏によって奪われ、段匹磾の元に届けられる。劉琨はこの件について実は何も知らなかったのだが、最終的には段匹磾によって絞殺された。


 匈奴漢きょうどかん両趙りょうちょうに割れてのち、祖逖もまた死亡した。


 祖逖は譙城しょうじょうを落とすと、雍丘ようきゅうに陣を構えた。後趙こうちょうが支配する城塞にいる者たちの多くが祖逖の元に下った。祖逖は配下将らと酸いも甘いも同じく味わい、農業桑業を奨励し、新たに降ってきたものを良く慰撫した。

 そこに元帝が「戴淵たいえん」を将軍として祖逖の元に派遣、祖逖が構築した軍の管理をさせようとした。

 祖逖は自身が懸命にいばらを払うような思いで河南の地を確保したのにもかかわらず、後からのうのうとやってきた戴淵に管理されることに納得がいかず、憂悶に沈んだ。

 加えて中央では「王敦おうとん」と朝廷との間で対立が起こっているという。このままでは国内で内乱が起こるであろうと感じ、そしてこれ以上自分が大きな功績を挙げられることもないとも気付き、絶望し、病を得て死んだのである。


 豫州よしゅうの者たちは男女となく、さながら親が死んだかのごとき悲しみに暮れた。



蒙求もうぎゅう


郭丹約關かくたんやくかん 祖逖誓江そてきせいこう

 前漢末、幼いころに母を亡くした郭丹は糊口をしのいで、のちに南陽郡からの使者として函谷関をくぐり関中入りした。このとき函谷関に対して「天子のお目に留まり、立身するまでは再びこの函谷関をくぐるまいぞ」と近い、光武帝の時代にその志を果たすのだった。

 東晋初期の名将、祖逖。五胡勢力が亡命政権である晋に追撃を掛けようとする中、祖逖はひとり迎撃を誓う。「中原を清めることなくば、長江を再び渡るまいぞ」。結局中原は清められなかったが、その威名は大いに五胡勢力を恐れさせた。

 不退転を誓う決意。


虞斐才望ぐひさいぼう 戴淵鋒穎たいえんほうえい

 東晋の宰相王導は虞斐こそが次の宰相たるべき才覚人望を兼ね備えていると目していたが、結局その見立ては叶わなかった。なお虞斐は本来虞「馬斐」です。機種依存文字になるため便宜的に「斐」にしてます。

 西晋末、陸機が戴淵による強盗働きに遭遇。その指揮があまりに優れたものであったため、思わず陸機は「何故あなたほどの才持てる者が強盗になど身を落としているのだ」と呼びかけ、友としての交わりを結んだ。

 才あるからと栄達できるわけでもなく。

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