04-01-06 東晋 元帝期の五胡

 匈奴漢きょうどかんでは劉聡りゅうそうが死亡、子の「劉粲りゅうさん」が立つも、その臣であった「靳準きんじゅん」によって殺され、簒奪された。石勒せきろくが靳準を討つと、劉曜りゅうようが自立。石勒を趙公ちょうこうに任じこそしたが、その忠誠心には疑問を抱いていた。

 それを感じ取った石勒は趙王を自称した。対する劉曜もまた国号を漢から趙に改めたため、石勒の立てた国は後趙と呼ばれる。


 略陽郡りゃくようぐん臨渭県りんいけんを根拠地とするてい族の酋長、「蒲洪ほこう」は勇猛な上知略も備え、氐の各部族をその威信にて従えていた。劉聡がかつて将軍として配下に迎え入れようとしたが、従わなかった。懐帝かいていの時代にいたり略陽公りゃくようこうを自称していたが、ついに劉曜のもとに降った。


 鮮卑せんぴ慕容廆ぼようかいは元帝に使者を送ってきていた。元帝もまた返礼の使者を送り、慕容廆を平州へいしゅうぼく遼東公りょうとうこうとした


 拓跋部たくばつぶでは拓䟦禄官たくばつろくかんの死後、拓跋猗盧たくばついろが三部を取りまとめていた。劉琨りゅうこんと拓跋猗盧もまた義兄弟の契りを結んでいた。懐帝の時に大単于だいぜんうを名乗ることが承認され、また代公だいこうに封じられた。拓跋猗盧は部民を率いて雲中うんちゅうから雁門がんもん入りし、劉琨には陘北けいほくの地を与え、こうしたことからその勢力を盛んなものとした。

 また劉琨軍の援軍として劉曜の軍を晋陽しんようにて大いに破ったこともあった。拓跋猗盧は成楽せいらくを北都、平城へいじょうを南都として、それぞれに城を築いた。愍帝が拓跋猗盧を代王だいおうに進爵させると、百官を置き、だい常山じょうざんの二郡を食邑とした。


 拓跋猗盧は末っ子を寵愛しており、将来後継者にしようと考えていた。このため長子の「拓跋六脩たくばつりくしゅう」を外に出さんと考え、拓跋六脩には末っ子に拝礼するよう命じた。拓跋六脩はその命に従わずに去り、そして怒りにまかせて拓跋猗盧討伐の兵を立ち上げた。拓跋猗盧は抵抗かなわず敗死した。

 この事態を受け、拓跋猗㐌たくばついいの子である「拓跋普根たくばつふこん」が挙兵、拓跋六脩を討ち滅ぼし代王の地位を継承するも、間もなくして死亡した。

 代人たちは拓跋猗盧の弟の子である「拓跋鬱律たくばつうつりつ」を立てた。しかしすぐに拓跋猗㐌の妻、「惟氏いし」が拓跋鬱律を殺害。その子である拓跋賀傉たくばつがじょくを立てた。このとき拓跋鬱律の子である「拓跋たくばつ什翼犍じゅうよくけん」は産着にくるまれていたが、母の袴の下に隠されていたため、殺されずに済んだ。

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