04-01-07 東晋 明帝司馬紹

 明帝めいてい司馬紹しばしょう。幼ない頃より聡明であった。


 あるとき長安ちょうあん、すなわち愍帝びんていのもとより使者がやってくきた。当時いまだ健在であった元帝げんていが、司馬紹に問う。

「長安の距離は、太陽に比べてどうなのであろうな」

 司馬紹が答える。

「長安が近くございます。長安よりひとが来たとは聞きますが、太陽のあたりより人が来たとは聞いたことがございません」

 元帝はこの回答を聞いて感心し、ある日このことを臣下らに向けて語った。その上で、改めて司馬紹に同じ内容を問う。

 すると、司馬紹は答える。

「太陽が近くございます」

 この答えに、元帝は愕然とする。

「どうしてそこで別のことを言うのだ!」

 司馬紹は答える。

「見上げれば、そこに太陽はあります。でも、長安は見えません」

 その答えを聞き、元帝はますます司馬紹の才能に感じ入った。


 成長すれば仁や孝の徳を兼ね備え、文学を楽しみ、武芸を良くした。賢人を愛し士人に礼を尽くし、諫言をよく受け入れた。庾亮ゆりょう温嶠おんきょうらと親しく交わっていた。


 王敦おうとん石頭城せきとうじょうにやってきたとき、司馬紹に勇略備わるのを見て取ると、その不孝を理由に誣告せん、と目論む。しかし司馬紹は温嶠らを頼り、その誣告謀議を頓挫させた。


 それから間もなくして元帝が死亡、即位した。

 対する王敦は簒奪を目論み、姑熟こじゅくに陣取ると、揚州牧ようしゅうぼくを自称した。

 明帝は王導おうどう司徒しととし、大都督だいととくを加え、諸軍を総督し王敦を討伐すべく命じる。王敦もその動きに対抗すべく兵を起こしたが、間もなくして病を得た。

 明帝は自ら王敦軍の偵察に出向く。対する王敦は昼寝をしていたのだが、その夢にて太陽が王敦の陣営を取り囲んだ。王敦は慌てて飛び起きると、配下に向け、言う。

「黄髭の鮮卑せんぴのガキが来なかったか!」

 明帝の母が鮮卑出身であったため、そう叫んだのだ。

 王敦の配下たちはすぐさま人をやり明帝の足跡を追ったが、間に合わなかった。


 明帝は諸軍を率い、南皇堂みなみこうどうに出向き、駐屯。夜中に壮士をつのり、王敦の兄である「王含おうがん」の軍を強襲、大破した。王敦は兄の敗報を聞くと、自ら兵を率い出向こうとしたが、病を篤くし、死んだ。


 軍主亡きあとの王敦軍はたちまち平定された。王敦の死骸は墓から暴かれ、切り捨てられた。

 官吏らは琅琊王氏を軒並み処分すべきだと提議したが、明帝は言う。

王導おうどう殿は大義に基づきいとこを滅ぼしたのだ、ならば十世代後に至るまで罪を問うべきではあるまいよ」


 間もなくして、明帝も死亡した。

 在位は 3 年であった。太子が立った。「成帝」である。



蒙求もうぎゅう

太真玉臺たいしんぎょくたい 武子金埓ぶしきんれつ

 東晋初期を大いに支えた名臣、温嶠。かれは親戚の娘がかわいかったので、北方で獲得した豪華な玉台を結納の品として差し出した。

 西晋末期の名士王済は凄まじい金持ちで、馬を飼う牧場の柵を金銭で作っていたという。

 財産をそこにぶっこむの!?

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