03-11-03 晋二 恵帝司馬衷 2

 王戎おうじゅうは時の趨勢にうまく身を委ね、特に恵帝を補佐すると言ったこともなかった。とにかくけちんぼで、田園を天下のあらゆる所に所持し、日夜象牙のそろばんをはじいていた。家にはみごとなスモモの木が生えていたが、ひとにその木の種を取られることを恐れ、スモモの種を捨てるときにはすべての種の核に錐を突き込み、芽が出ないようにしてから捨てた。

 人物評価は常に虚名にのみ基づいていた。阮咸げんかんの子である阮瞻げんせんが王戎と会ったとき、王戎はこう質問している。

孔子こうしは名教を尊び、老荘ろうそうは無為自然の立場を明らかとしている。さて、この両者には違いがあるのだろうか、ないのだろうか」

 阮瞻が答える。

「将無同(同じではないのかも、どうかも)」

 王戎はこの回答にしばし感嘆の嘆息を漏らしたあと、ついに側仕えとして採用した。このことから阮瞻は「三語掾さんごろく」と呼ばれるようになった。


 この当時、「王衍おうえん」や「楽広がくこう」が清談の名手として名を知られていた。

 王衍はその澄み渡った知性から、幼いころには既に山濤さんとうからこう評価されていた。

「どんなおばあさんが、こんなかぐわしい子を産んだのか。しかしこのような子が天下や民を誤らせるのであろうな」

 王衍の弟である「王澄おうちょう」、阮咸げんかん、阮咸の甥の「阮脩げんしゅう」、「胡毋輔之こむほし」、「謝鯤しゃこん」、「畢卓ひったく」らはみな放埒な振る舞いをほしいままとし、酔って裸となり平然とひとに無礼な行いを働いた。

 ある役人の家で酒が熟した。畢卓は夜に酒蔵に忍び込んで盗み飲みをし、守衛によって捕縛された。昼になってみてみれば、それが畢卓と判明。楽広がくこうはこの話を聞いて大いに笑い、言う。

「聖人の仰る境地にも楽しむ要素は、確かにある。それにしても、このような真似までして楽しみを求めんでも良かろうに」


 が立って間もなくのころ、何晏かあんらは「天地万物はみな無を根本とする」と論を立てた。この論を王衍らは愛し尊重した。

 裴頠はいぎはこの風潮を危ぶみ崇有論を著したが、結局この風潮を打破することはできなかった。



蒙求もうぎゅう

季布一諾きふいちだく 阮瞻三語げんせんさんご

 季布は項羽配下の将として劉邦を苦しめたため賞金首となったが、季布を慕う民よりの必死の懇願により許され、諸侯に任じられた。そこでの統治においてもまた「季布さまよりお認め頂くことは百金を得ることよりも貴い」と讃えられた。

 竹林七賢のひとり阮咸の息子、阮瞻は、竹林七賢でありつつ位人臣を極めた王戎に引見したとき、王戎より「孔子の言葉と老荘の言葉に違いはあるのだろうか」と聞かれた。そこに対して「将無同(まぁ、同じだと言えなくもないでしょうか)」のたった三語で答えて王戎を唸らせたという。

 控えめな言葉で、対手を感服させる人たち。


廣客蛇影こうきゃくじゃえい 殷師牛鬬いんしぎゅうとう

 八王の乱に振り回された論客。楽広。かれのもとに来た客が酒を飲むと、間もなく具合を悪くした。杯の中に蛇が入っていたにもかかわらず飲み干してしまったことで気分が悪くなった、と言うのである。調べてみるとそれは部屋にあった蛇の絵が杯の中に映り込んでいただけだった。楽広がそれを客に告げると、彼はけろりと回復した。

 東晋末の動乱に振り回された論客、殷仲堪。彼の父殷師は奇病にかかっていた。床下でアリのうごめく音が、間近で闘牛が行われているほどの轟音に聞こえたという。

 奇妙な病気の話。


叔寶玉潤しゅくほうぎょくじゅん 彥輔冰清げんほひょうせい

 西晋末~東晋におけるナンバーワンイケメンとして名高かった衛玠の外見は、みずみずしい宝玉のごときである、と評された。

 西晋末の名士楽広は若い頃「彼の姿や心持ちはまるで水鏡のようだと讃えられていた。

 そのみごとな容姿立ち振る舞いの二人。


山濤識量さんどうしきりょう 毛玠公方もうかいこうほう

 竹林七賢なのに三公にまで上りつめている、山濤。その見識は凄まじく、老子を読んでもいないのにあっさり老子の境地にたどり着くし、孫子も読まないのに軍略のキモを一瞬にして見抜くのだった。

 時代が下り、りょうの人が、そんな山濤と並べ讃えるに値するのが毛玠である、と語っている。曹操のもとで働き、その人材登用ぶりは完全に才覚にのみ基づき、コネを差し挟む余地が一切なかった、とのことである。

 凄まじい見識を示した高官二人。


阮放八雋げんほうはちしゅん 江臮四凶こうきしきょう

 東晋初期の名士、阮放。かれはその自由闊達な振る舞いから、郗鑒ちかん胡毋輔之こむほし卞壼べんこん蔡謨さいも阮孚げんふ劉綏りゅうすい羊曼ようまんと並べ讃えられており、兗州八伯と呼ばれた。

 一方、同時代にいたた江泉こうせん史疇しちゅう張嶷ちょうぎょう羊聃ようせんも四伯と呼ばれていた。こちらは最悪なやつ4選である。そこで「凶」と大げさに表現された。

 すごいひともやばいひともいる。


淳于炙輠じゅんうしゃか 彥國吐屑げんこくとせつ

 輠というのは車の動きがきしまないための潤滑油を入れておく器。これをあぶるとそのうち油は溶けてなくなってしまうのだが、斉の威王・宣王に仕えた淳于髡の知謀は「いくら炙っても尽きることがない」。一つのキーワードで三日三晩語らせてもまったく問題ないレベルなのだという。

 対する胡毋輔之こむほし、あざな彦国は西晋せいしん東晋とうしん頃の名士で、兗州八伯えんしゅうはっぱくという竹林七賢ちくりんしちけんのパチモノに組み込まれている。彼は名言製造マシーンだったようで、「あの人の口から名言がノコギリの木屑かって勢いで出てくるんですけどどういうことなんですかね……」とか言われてる。

 見事な言説を提示するふたりだが、もうちょいマシな評価の仕方できなかったもんですかね……って思わせるところまで一緒なのが、また。


阮宣杖頭げんせんじょうとう 畢卓甕下ひつたくおうか

阮脩(晋)&畢卓(晋)

 竹林七賢阮咸のいとこ、阮脩。彼は非常に大雑把な性格で、杖の先に百銭をぶら下げてあちこちを散策しては酒を飲み、のびのびと酔っ払った。

 西晋末期を生き延びた畢卓は役人でありながら酒屋の蔵に忍び込み、酒を盗み飲みしてそこで寝込んでしまった。それで捕まるもまったく悪びれず宴会をそこでひらいた。

 自由気ままな酒飲みたち。


張敞畫眉ちょうしょうかくび 謝鯤折齒しゃこんせつし

 前漢宣帝の時代、長安ちょうあんの治安を厳正に守った張敞は当然敵も多く、その短所を誣告するものもいた。そのひとつがかれが妻の眉を手ずから描いている、というものである。これが宣帝の耳にも届いたため召喚を受け、問われる。すると「妻の眉を描くことの何が悪いのですか?」と張敞が返答したため、もっともだ、と宣帝も笑った。

 東晋の名士、陳郡謝氏の始祖的位置にいる謝鯤。彼の特技は歌である。そんな彼が隣家の高氏の娘に迫ったところ下駄をぶつけられ、前歯を二本失った。周囲のものはそれを物笑いの種としたが、謝鯤は「けれども私の歌は健在だよ」と平然としていたという。

 うーん、これは現代的観点から言うと男尊女卑の匂いがきついですねー。女にかしずいてなお平然といられるふたり、的ニュアンスですものね。


平叔傅粉へいしゅくふふん 弘治凝脂こうじぎょうし

 曹操の下に仕えた文人何晏かあん、あざな平叔。彼は美男子すぎ色白すぎで、何も塗らなくともおしろいを塗っているかのようだった。

 東晋の名士杜艾とがい、あざな弘治。人となりも良かったが、何よりも人目を引いたのはそのぷるっぷるのお肌であったという。

 その顔が白かったり、ぷるぷるだったり。


何晏神伏かあんしんふく 郭奕心醉かくえきしんすい

 漢末の大文人、何晏。彼は抜群の文才を示していたが、同じく凄まじい文才を示していた王弼に対し素直に感服した。

 西晋の名士、郭奕。彼は名高かったがみだりにひとと交友を持とうとは思わなかった。しかしあるとき、竹林七賢の阮咸とあってたちまち感服、敬服した。

 才は才に惚れる。

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