03-08-07 漢一 諸葛亮 4

 諸葛亮しょかつりょう漢中かんちゅうでいちど兵を取りまとめ、年が明けると祁山きざんに侵攻した。その行軍は整っており、号令は隅々にまで行き渡っていた。


 劉備りゅうびの死亡以降しょくが大人しくしていたことを理由に備えを怠っていたが、諸葛亮の出陣に伴い、いきなり天水てんすい安定あんていが諸葛亮に呼応する。関中には激震が走り、曹叡自ら長安に出向かねばならない事態となった。

 魏は「張郃ちょうこう」を派遣して迎撃させた。対する諸葛亮は「馬謖ばしょく」に軍を率いさせ、街亭がいていにて激突。ここで馬謖はあまり突出しすぎないようにとの諸葛亮からの指示を破り、結果大敗。諸葛亮はいちど軍を漢中かんちゅうに引き返すと、劉禅りゅうぜんに上表する。


「漢と魏賊とは相並び立ちませぬ。また王はいつまでも辺境の地で安穏ともしておれませぬ。臣はこの身朽ち果てるまで、陛下を中原にお戻しすべく尽力いたす所存、死して後のことは考えませぬ。なれど戦の趨勢なぞ所詮臣の愚見では見出しきれぬところにございます」


 改めて出兵、陳倉ちんそうを包囲したが、落とすことは叶わなかった。


 諸葛亮はさらに北伐、祁山きざんを包囲する。対する魏の守将は司馬懿である。司馬懿は張郃ちょうこうを蜀軍に向け発した。諸葛亮の迎撃により魏軍は大敗するものの、一方で蜀軍は食料が窮乏。撤退した。リベンジを目論む張郃は追撃をかけるも、途中に伏されていた弩兵により射殺された。


 諸葛亮は農業を奨励し、兵の訓練を重ね、木牛や流馬を開発、邸宅や城郭を修繕、民や兵を三年間休息させ、その後満を持して十万の兵を動員、斜谷道やこくどうを経て魏に改めて侵攻した。軍が関中に出、渭水いすいの南に陣を構えると、その対岸に司馬懿しばいもまた陣を構える。


 諸葛亮は幾度となく動員を行っていたため蜀本土からの兵糧搬入に難を抱えていた。このままでは中原奪還の志叶わぬと、諸葛亮は兵を分け、一部に現地での農耕を行わせた。いわゆる屯田策とんでんさくである。このとき耕作に当たらせた兵たちには地元民たちに協力をよく取り付けた。このため地元民たちも安堵した。それ以外にも、蜀軍で私欲を満たそうとするものはいなかった。


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