02-06-08 漢四 宣帝劉詢 5

 前 61 年、西方の諸民族が反乱を起こす。宣帝せんていは「趙充国ちょうじゅうこく」に誰が将に相応しいか、兵力はいかほど必要か、を問う。趙充国はこの時齢七十余であったが「自身が将となって赴き、必要な兵力を算定します」と答えた。

 西方拠点に赴いた趙充国は騎兵を解散させ、当地にて農地運営をしながら戦闘も行う、いわゆる屯田兵制を奏上。はじめ賛成者は少なかったものの、やがて魏相ぎしょうも賛成に回ったため採用された。


 前 60 年、司隷しれい校尉の「蓋寬饒がいかんぎょう」が宣帝に訴え出を上申。宣帝は恨み言が書かれているに違いない、として、蓋寬饒を捕らえるよう命じた。間もなく蓋寬饒は自殺した。


 前 59 年、魏相が死亡した。魏相は上奏のルールを簡易化したり、過去の宰相たちの政策を再検討して、いま運用するに値する内容については積極的に取り入れた。また官吏に休暇を与えそれぞれの故郷に戻らせた際には、休暇終了後につぶさに当地の状況をヒアリングし、各地の状況把握に努めた。このため災害、反乱に対してすみやかな対応をとることができた。宣帝は魏相とともに丙吉へいきつを大いに信任していたため、後任として丙吉が丞相となった。


 丙吉は寛容にして謙譲の徳を備えていた。かつて人々が争っていたところに出くわした時には素通りし、荷物を引く牛が喘いでいるのを見かけて、牛の負担について使役者に問いただす、と言うことがあった。人より牛を優先するとはどういうことなのかと問う者があったので、丙吉は答えている。

「民が都で争うのをさばくのは京兆けいちょう尹の管掌であろう。宰相が口を出してよい領分ではない。しかし牛が喘ぐのは、季節外れの暑さのせいやもしれぬ。となれば天地の政に関わる三公が季節のめぐりに合わせた政令を発さねばなるまい」と答えた。人々は丙吉が為政者としてのなすべきことをよくわきまえている人だと感心した。



蒙求もうぎゅう

枚臯詣闕ばいこうけいけつ 充國自贊じゅうこくじさん

 枚臯ばいこうの父、枚乗ばいじょう前漢ぜんかん景帝けいてい期に活躍した文人だったが、公的な記録にはその息子で文才に長けている者がいなかった。しかしあるとき長安城ちょうあんじょう城門にひょっこりと現れた枚臯が「ワイ枚乗の息子やで!」と言い出す。枚乗が旅行先でこさえた子だというのだ。実際枚乗にもひけを取らないレベルの文人だったので武帝ぶていは彼を側近に採用した。

 趙充国ちょうじゅうこくは前漢宣帝せんていの時代に活躍した老将。西方をきょう族が侵してきたとき、誰が適任かと問われたときに「まぁ、わし以上にやれるものなどおりますまいな」と豪語、本当に大勝して帰ってきた。

 自らの才覚への自負、それを言い切る度胸、そして自負通りの実力を示したふたり。


王承魚盜おうしょうぎょどう 丙吉牛喘へいきつぎゅうせん

 西晋の名士、王承。東海とうかいの太守となったときに小役人が王承の館にある池から魚を盗むも、「文王とて民に恵みを分け与えていただろう」と一顧だにしなかった。その寛容さに東海郡の者たちは王承を大いに慕ったという。

 前漢の宣帝せんていの丞相となった丙吉は道ばたで牛が喘いでいるのを見て飢饉の前触れを察し対策を打つも、道ばたでトラブルがあってもスルーした。飢饉は天下のこと、トラブルは町の長官の仕事、というわけである。

 名施政者の対応。

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