04-05 東晋滅亡

04-05-01 晋五 安帝司馬徳宗上

 安帝あんてい、名は司馬徳宗しばとくそう。幼いころより知恵足らずであり、ろくに言葉も喋れず、暑さ寒さもまるで判別できないような状態であった。飲食にせよ寝起きにせよ、なにひとつとして自力では行えない。

 叔父の司馬道子しばどうしが摂政として補佐に回った。


 拓跋珪たくばつけい後燕こうえんを南北に割った。皇帝を自称、平城へいじょうを都とした。


 司馬道子は息子の司馬元顕しばげんけんに政を丸投げし、晋の政が乱れた。建康けんこうより東方の沿岸地域の治安は最悪となり、その中より妖賊の「孫恩そんおん」が民心の動揺に乗り、海に浮かぶ島を根拠地として乱を起こした。

劉裕りゅうゆう」が、この孫恩を討伐した功により立身した。孫恩はしばしば劉裕によって攻め破られ、ついには海に身を投げて死んだ。配下の「盧循ろじゅん」「徐道覆じょどうふく」が乱を継続した。


 桓温かんおんの息子「桓玄かんげん」が晋に反旗を翻した。

 桓玄は父の爵位であった南郡公なんぐんこう位を継承しており、その才覚、家門いずれをも誇りに思っていた。自らこそが英雄、豪傑であると自負していたため、与えられた官位が義興郡太守ぎこうぐんたいしゅになったと知ると、嘆息して言う。

「父上九つもの州の方伯ほうはくとなられたと言うのに、その子はたかだか五つの湖の管理人にしかなれんのか!」

 そして任地を放棄し、帰国した。

 後に江州刺史こうしゅうししとなり、更には都督ととく荊江等けいこうとう八州軍事はっしゅうぐんじに任じられ、江陵こうりょうに拠点を置き、ついには挙兵して建康けんこう入りしたのである。

 桓玄は司馬元顕しばげんけんを、次いでその父である司馬道子しばどうしを殺害。相国しょうこく楚王そおうとなると、九錫きゅうしゃく禅譲ぜんじょうを安帝に強要した。


 しかし、すぐさま劉裕が京口けいこうにて桓玄討伐のため決起。桓玄軍と戦う。桓玄は逃亡、そのさなか殺された。


 安帝が復位すると、劉裕は京口の守将に任じられた。


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