03-02-04 漢七 明帝劉荘 4

 75 年、北匈奴きたきょうど耿恭こうきょうを攻撃してくる。


 明帝めいていが即位した翌年(58 年)、南匈奴みなみきょうどの単于「」が死んだ。弟の「ばく」が立ったので、明帝は莫に璽綬を与えた。その後北匈奴が攻めかかってくると、南単于が撃退。

 その後漢と北匈奴もまた使者を交わし合うようにはなった。しかし南単于がそれを恨みに思い、ついには北匈奴と結ぼうと考えた。このため漢も五原ごげんに守将を置いて防備を整えた。

 こうして北匈奴がしばしば攻め入ってきたため、耿恭を金蒲きんほ城に置いたのである。


 攻め入ってくる匈奴に対し、耿恭は矢に毒を塗り、匈奴に言う。

かんの矢には神力が宿っている。ひとたびこの矢にあたれば、その者にはたちまち異変が起ころう」

 匈奴で矢にあたった者の肌は、毒矢を受ける訳なので、当然異変を起こす。このときは傷口が泡立つ、と言うものだった。匈奴たちはみな驚きおののいた。更に追い打ちを掛けるように暴風雨が訪れる。耿恭は天変に乗じて攻撃を仕掛け、匈奴軍を大破。匈奴は言う。

「漢の兵は神がかっている、恐るべき相手だ」

 そうしてついに金蒲城の包囲を解き、退散した。



 同年、明帝が死亡した。在位 18 年、48 歳であった。明帝は猜疑心が強く、密偵を臣下のもとに飛ばして監視させ、秘め事を暴いては得意がっていた。公卿や大臣はしばしば貶められていた。

 あるとき明帝が郞の「薬崧やくしょう」に怒り、杖で叩いた。薬崧が床下に逃げ込むと、明帝は更に怒り、言う。

「出てこい、出てこいと言うに!」

 薬崧が答える。

「天子は深遠なる思索を重ね、諸侯は慎み深くあらねばならぬ、と聞いております! 人君がおん自ら郞なぞをお叩きになるなぞ、聞いたことがございませぬ!」

 これを聞き、明帝は薬崧を許した。


 明帝は光武帝こうぶていの時代の制度を変えず、外戚を政務に参与させなかった。例えば明帝の姉妹である「館陶かんとう公主」が息子を登用して欲しいと頼んできても「郞と言う大任に、不適格な者を付けるわけには行きませぬ」と断った。こうして官吏にはみなふさわしい才覚の者がつき、民も家業に専念することができた。また遠方の民も漢によく服した。人口も一気に増大した。


 太子が立った。「章帝しょうてい」である。

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