04-02-06 東晋 明成期の五胡

 石虎せきこが主の石弘せきこうを殺害。趙天王ちょうてんおうを自称。石勒せきろくの子孫を皆殺しとした。



 せいの国号がかんに改まった。

 李雄りゆうは兄の子である「李班りはん」を太子として死亡したのだが、李雄の子である「李越りえつ」が李班を殺し、弟の「李期りき」を帝位につけた。李期は叔父に当たる漢王かんおう李寿りじゅ」に威名があるのを恐れ、外地駐屯を命じた。しかし李寿は兵を返して李期を襲撃、殺害の上自らが帝位に立った。漢王からの即位であったため、漢と改めたわけである。



 だいでは拓跋たくばつ什翼犍じゅうよくけんが立った。

 先の代王であった拓跋賀傉たくばつがじょくが死ぬと、弟の「拓跋紇那たくばつこつな」があとを継ぐ。しかし外部よりの圧迫を受け、出奔。空位となった代王位は拓跋鬱律たくばつうつりつの子「拓跋翳槐たくばつえいかい」が継承した。そこに兵を引き連れてきた拓跋紇那がやって来、襲撃。拓跋翳槐を石虎せきこのもとに追いやる。石虎は「拓跋翳槐こそが代の正統である」と表明の上送り込み、拓跋紇那の排除を果たした。

 間もなくして拓跋翳槐が死亡。死に際し、後趙こうちょうに留められていた拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけんを呼び戻し、王とするよう配下諸部の大人たいじんに命じた。

 拓跋猗盧たくばついろの死亡以来代国は内乱を繰り返し、諸部の民も離散していた。そのような中立った拓跋什翼犍は武勇と智略を兼ね備え、先祖が興した事業を見事に修復し、百官を整備した。その号令内容は明白であり、政は清廉にして簡素。人々はその統治に安んじ、東は濊貊えはく、西は破落那はらくな、南は陰山いんざん、北は沙漠さばくの彼方まで、数多なす者たちが帰服し、その人口も数十万に及んだ。ここから拓跋氏は更に拡大するのである。



 東晋とうしん慕容皝ぼようこう燕王えんおうに封じた。慕容廆ぼようかいの代で受けた遼東公りょうとうこうから、更に進爵したわけである。

 慕容廆の嫡子として生まれ、雄大、剛毅。権略にも長け、経典に基づいたた経営を喜んだ。父の死に伴い大人たいじん位を継承すると、配下らが慕容皝に王と名乗ってほしい、と乞うてきた。そこで慕容皝が晋に王位就任を求める使者を送り、承認されたわけである。

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