04-02-07 東晋 康帝司馬岳

 康帝こうてい司馬岳しばがく成帝せいていの死去に伴い皇帝となった。


 庾亮ゆりょうの死後、荊州けいしゅうは弟の「庾翼ゆよく」が責任者となっていた。心配性で功名を挙げることに躍起となっていた。東晋貴族たちの浮ついた風潮を好まなかった。

 殷浩いんこうの才覚及び名声は当世第一とさたが、庾翼からは重んじられなかった。いわく、「あのような奴らはまとめて高楼にでも押し込めておけばよいのだ、天下が太平となったところで、初めて与えるべき任務を検討すれば良い」

 しかし世間の評判としては、殷浩を管仲かんちゅう諸葛亮しょかつりょうになぞらえる風潮が強かった。どうしてそんな話になったかといえば、ある占い師がこんな事を言ったそうなのである。

「世の興亡を占うに、淵源えんげんの世にいでずんば、蒼生たみぐさいかにせんか」。

 なお、淵源は殷浩のあざなである。

 そうした世論の後押しを受け、庾翼も殷浩を副官として招聘したが、拒否された。このため庾翼は殷浩を王衍おうえん石勒せきろくより「お前のせいで天下が乱れたのだ!」となじられたあの人物になぞらえ、嘲った。


 一方この頃、桓彝かんいの嫡男である「桓温かんおん」が琅琊内史ろうやないしに任じられていた。

 豪傑でありながら、風流。桓温を推挙するにあたり、庾翼は言う。

「この者こそが英雄と呼ぶべき才を帯びている。ならば彼にこそ地方総督の任を負わせるべきだ」

 庾翼は胡族を滅ぼし、しょくに割拠する成漢せいかんを打破することこそが自らに課せられた使命であるとし、合わせて兵を動員して北伐を実行せん、と考えた。そこで駐屯地を襄陽じょうよう、より前線に近い場所に移動した。詔勅が下され庾翼を都督ととく征討諸軍せいとうしょぐんとされた。庾翼は桓温かんおんにその前鋒軍の指揮を執らせた。


 成漢せいかんでは李寿りじゅが死亡し、子の李勢が立った。


 康帝が死亡した。3 年の在位であった。太子が立った。「穆帝ぼくてい」である。

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