04-03 桓温の時代

04-03-01 晋四 穆帝司馬聃

 穆帝、「司馬聃しばせん」。3 歲で即位し、大叔父に当たる「司馬昱しばいく」、のちの簡文帝かんぶんていが輔政した。


 庾翼ゆよくが死亡した。このため桓温かんおん都督ととく荊梁等州けいりょうとうしゅう軍事ぐんじとなった。桓温は成漢討伐を上表。そして成漢を滅亡させた。


 燕では慕容皝ぼようこうが死亡し、「慕容儁ぼようしゅん」が立った。


 趙では石虎せきこが皇帝を名乗り、間もなくして死亡した。子の「石世せきせい」が立つも、兄の「石遵せきじゅん」に殺され、簒奪された。

 こうした趙の内乱を受け、褚裒ちょぼうが趙を討伐すべきであると訴え出る。朝廷でも市井でもこの機会に中原の回復が叶うのでは、と言う機運が高まるも、その中にあって蔡謨さいもはひとり「双方の徳、物資、兵力を比較の上、ことを起こすに越したこともない。己が分を見誤れば、朝廷にまで憂いが降り注ごうぞ」と語っていた。

 褚裒は北伐の軍を興したが、やはり敗北した。


 涼州りょうしゅうでは張重華ちょうじゅうか涼王りょうおうを自称した。


冉閔ぜんびん」が後趙から簒奪、国号をに改め、石虎の孫 38 人を殺害。石氏を滅ぼした。


 蒲洪ほこう三秦王さんしんおうを自称し、苻洪ふこうと改名した。しかし「麻秋」によって毒殺された。苻洪の息子である「苻健ふけん」が麻秋を斬り、父の勢力を継承した。苻健は長安ちょうあん入りすると秦天王しんてんおうを名乗り、間もなくして皇帝を自称した。


 燕の慕容儁ぼようしゅんもまた皇帝を自称した。


 趙将の「姚襄ようじょう」は晋に帰服したものの、間もなく再び反旗を翻した。殷浩は姚襄討伐の軍を動かしたが大敗、逃げ落ちた。殷浩は更迭され、死んだ。

 涼では張重華が死亡、子の「張曜霊ちょうきれい」が立つも、臣下に廃され、「張祚ちょうそ」が立った。


 桓温が前秦を長安に追い詰めるも兵糧難にあえぎ、撤退した。

 桓温の襲撃後間もなくして、苻健が死んだ。その後を子の「苻生ふせい」が継いだ。


 涼の張祚ちょうそは淫乱、残虐。このため配下に殺され、子の「張玄靚ちょうげんせい」が立てられた。


 姚襄はいちど燕に投降。許昌きょしょうに拠点を置き、洛陽らくようを攻撃したが、桓温によって跳ね返された。


 前秦では「苻堅ふけん」が君主の苻生を殺し、秦天王を自称した。

 慕容儁が死亡し、子の「慕容暐ぼようい」が立った。


 桓温は「謝安しゃあん」を副官として登用した。

 穆帝が死亡した。在位 17 年であった。子がなかったため、甥に当たる司馬丕しばひが皇帝に立てられた。哀帝あいていである。

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