04-02-05 東晋 王導終・庾亮

 蘇峻そしゅんの乱平定後、庾亮ゆりょうが外鎮となり、王導おうどうが中央の取り仕切りとなった。


 外部に出向くようになったとは言え、庾亮の政治力は中央の世論をも動かしうるほどになっていた。その上で長江ちょうこうの上流、すなわち荊州けいしゅうの兵権も握った訳である。庾亮のもとに帰参せんと願い出るものも多く、王導も内心ではその勢いを抑え込みきれないと考えたのである。


 かつて王導が、庾亮の鎮守する地の東方に出向くことがあった。そこに西方、つまり庾亮が陣取る方面よりの風が吹く。

 王導は扇子を開いて風を遮りながら、言う。

「庾亮どのがわしを汚されおるわ」


 王導は簡素にして欲少なく、あらゆる事柄を観察した上で適切な功績を挙げていた。日々目先の利益に食いつくこともなかったが、家門の会計に利益が出ないこともなく、元帝げんてい明帝めいてい成帝せいていの三代に渡ってよく帝業を補佐した。

 倉庫に余計な穀物や衣類の蓄えもなかった。



 庾亮が死亡した。

 蘇峻が乱を興したとき、庾亮は平定のための軍を起こすべく檄文を飛ばした。蘇峻が平定されると、庾亮は自らが招いた乱である、と土下座にて謝罪。中央から退き、外藩として勤めるようにしたい、と求めた。そのため都督ととく江荊等州こうけいとうしゅう諸軍事しょぐんじ、つまり陶侃の後任となり、「殷浩いんこう」を幹部として招いた。


 殷浩と「褚裒ちょぼう」はともに清談の名手であり、特に老子や易経についての議論を得意とし、江南での名声を博していた。中でも殷浩の名声は図抜けていた。


 庾亮は中原の奪回を志していたため、石頭城に大軍及び自身を置き、長江漢水流域の各地域にくまなく軍を配備、後趙こうちょう討伐の号令をかけるべきである、と成帝に訴え出た。

 するとそこに「蔡謨さいも」が反論する。

「長江ですら蘇峻を防げなかったと言うに、なぜ漢水で石虎せきこを防げると思うのですか?」


 結局庾亮の石頭城移鎮は却下され、武昌ぶしょう赴任のまま死んだのである。



蒙求もうぎゅう

泰初日月たいしょじつげつ 季野陽秋きやようしゅう

夏侯玄(三國志)&褚裒(世説)

 三国魏の名士夏侯玄かこうげん、字泰初たいしょはその交友スキルがずば抜けていた。夏侯玄と話す人々は、まるで夏侯玄の懐に太陽や月が入っているのではないかと錯覚したという。ただしその本心はわりとえげつない批判者であった。

 西晋の滅亡を避け、東晋に亡命した名士褚裒ちょぼう、字季野きや。口にはめったに批判の言葉を表わさないが、その内心ではかなりえげつない批判の言葉が渦巻いていたという。人物批判を春秋と言い、当時の皇帝の祖母鄭阿春ていあしゅんの名の字を避けて陽秋と読んだのだ。

 交友広き名士の、表と裏。

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