04-10-02 隋十 文帝楊堅 下

 604年、文帝ぶんていが病に倒れた。太子たいし楊広ようこうを文帝のそばにつけた。楊広は文帝死後の動きについて検討をするため、尚書僕射しょうしょぼくや楊素ようそに諮問の手紙を送った。楊素が返事をしたためたところ、この返答が誤って文帝のもとに送り届けられてしまう。文帝はその内容を見て大いに怒った。


 また、文帝の寵姫であった陳夫人ちんふじんが着替えをしているところに楊広が迫る、と言った事件が起こった。陳氏は拒絶の上なんとか文帝のもとに逃れる。文帝は陳氏のおかしな様子を気に掛け何が起こったのかを問う。すると陳氏は涙を流し、言う。

「太子に礼はございませぬ」

 この言葉に全てを悟った文帝は更に怒りを募らせ、床を叩く。

「あの畜生に大事を預けるに足るはずがあろうか! 独孤伽羅どっこきゃらめ、このわしを誤らせよって!」


 こうして楊勇ようゆうを復位させるべく召喚しようとしたのだが、楊広が先手を打ち、太子右庶子の張衡に病を見させるという名目で病室に入らせ、文帝を殺害させた。更に人を遣り、楊勇もくびり殺した。



 文帝の性は謹厳重厚、政に精を出し、その命令禁令は必ず施行された。本人自身は吝嗇な口でこそあったのだが、功績に対する褒賞をケチることはなく、万民を愛し、農業桑業を奨励し、徭役や課税も軽減し、自身に回す財貨を節約した。このため天下はいよいよ教化され、はじめ皇帝となったときの民戸は四百万以下であったにもかかわらず、四半世紀弱の統治期間を経てその数は八百万を超える勢いとなった。

 一方では北周ほくしゅうよりだまし討ちのような形で簒奪し、武力で天下を掌握した後ろ暗さから猜疑心が強く、多くの讒言を真に受けるようなところがあった。功臣も昔なじみも、その終わりを全うするものはほぼいなかった。在位二十四年。楊広が即位した。悪名高き煬帝ようだいである。

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