03-03-08 漢八 黄憲

 汝南じょなん太守の「王龔おうきょう」は才ある人士を愛した。「袁閬えんりょう」「陳蕃ちんばん」らを推挙した。その中でも特に際立った才覚を示したのが、「黄憲こうけん」である。


 黄憲の父は牛医であった。黄憲が十四歳のとき、旅先で潁川えいせん人の「荀淑じゅんしゅく」と宿屋で出会った。荀淑は黄憲をただ者ではないと見て取り、言う。

「貴方こそは我が手本たるべきお方である」

 のちに袁閬と会った荀淑は、袁閬に言う。

「あなたの国には顔回がんかいにも比すべきお方がいるのだな」

 袁閬は答える。

「さては黄憲殿に会われましたな」


 また「戴良たいりょう」も才気ある者として知られていた。とは言え彼も黄憲に出会ったあとには茫然自失とした。

 戴良の母が言う。

「お前、また牛医の子と遊んできたのかい」


 さらに陳蕃らも顔を見合わせ言っている。

「二、三ヶ月も黄憲殿と話せずにいると、自らの内にさもしい心が芽生えるかのようだ」


 太原たいげん人の「郭泰かくたい」が訪問すると、袁閬の家に泊まろうとせず、黄憲の家にて日々を過ごす。その理由を問われると、答える。

「袁閬殿の器は氿濫きゅうらんのようなものだ。湛えられた水こそ清らかだが、底が浅いため掬いやすい。しかし黄憲殿の器は広く、深い。打ち寄せる波のごとく尽きせず、濾過しようにも清めきれぬ。濁らそうとしても濁らせ切れぬ。全くもって測り知れぬのだ」


 黄憲は孝廉こうれんに挙げられ、のちに郡府に召喚された。そこで仕えるよう勧められたのでしばらくは様子を見ていたが、すぐに故郷に戻った。48 才で死亡した。



蒙求もうぎゅう


楚元置醴そげんちれい 陳蕃下榻ちんばんかとう

 劉邦りゅうほうの弟である、劉交りゅうこう。彼は酒をたしなまない臣下のために、宴会が開かれるときには常に別に甘酒を用意させていたという。

 後漢末、党錮とうこの禁に関与した烈士、陳蕃ちんばん。彼はいわゆる高名の士とは付き合おうとせず、名はなくとも志操高きもののためにのみ腰掛けのベンチを差し出し、もてなしたという。

 名声ではなく、尊敬するものに対しての敬意を示すふたり。


王允千里おういんせんり 黄憲万頃おうけんばんけい

 王允は後漢末、朝廷を席巻した董卓とうたくを暗殺した首謀者。結局は政争に巻き込まれ横死するのだが、若い頃には「王を乗せる千里の馬がごとく王を補佐するであろう」と評されていた。

 後漢安帝あんてい頃の人士として圧倒的な評価を得ていたのが黄憲。彼は「千頃の池など比べものにならないくらいに奥深い人物だ」と表されている。

 巨大な数字に絡んだ、名士の評価。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る