03-03-02 漢七 章帝劉烜 下

 88 年、章帝しょうていが死亡した。在位 13年、31 歳であった。

 明帝めいていのせせこましい政治によって人々が窮屈な思いをしていたことを受け、その政務は寛大さを旨とし、礼楽を重視した。


 朝廷にて地方よりの人材登用についての議論がなされたとき、「韋彪いひょう」が発言する。

「国の政治はまず賢人を抜擢するところから始まる。その賢人の中でも孝行者を特に首席に置くべきである」

 章帝もこの発言を受け入れた。


 蘆江ろこうの「毛義もうぎ」のもとに地方長官としての辞令が届いた。そこに友人の「張奉ちょうほう」が毛義のもとに訪問した。張奉は毛義が辞令を受け取って嬉しそうにしていたのを見て内心軽蔑の年を禁じ得なかった。のちに毛義の母が死ぬと、あらゆる官位の招集にも応じなくなった。それを見て張奉は感嘆して言う。

「過去に喜んでいたのは、親のために自らの節度を曲げていたのか」

 この評判を聞いた章帝は、毛義に手厚い褒賞を下した。


 章帝の時代にも地方長官には人材がいた。蜀郡を治めていた「廉范れんはん」は煩わしい法制を廃して民の暮らしに貢献した。これにより、民から

「廉范様はどうしてなかなか我が郡に起こしくださらなんだ、殿のおかげでわしらは仕事にいそしめる、襦袢一枚しか持てなんだわしらが、いまでは五枚の衣装持ち」

 と歌われた。


 政府もまた税を軽くして、地方の名主たちも温厚な統治を行った。章帝の治世中、民らはその恩恵を被ったのである。太子が立った。「和帝わてい」である。



蒙求もうぎゅう


毛義捧檄もうぎほうげき 子路負米しろふべい

 毛義は後漢の人。孝行者で知られ、顕職に推挙され喜びを顔に浮かべたが、それは親の暮らしのためだった。親が死ぬと即辞職した。

 孔子こうしの高弟、子路もまた親のために重い米袋を抱えて遠路はるばる移動した逸話を持つ。

 親のために全力を尽くす、ふたりの孝行者が並べ讃えられている。


劉寵一錢りゅうちょういちせん 廉范五袴れんはんごこ

劉寵(後漢)&廉范(東観漢記)

 後漢末期、会稽かいけいで善政を布いた劉寵が都に戻ることに。すると恩を感じた地元の老人がめいめいに、道中の足しにして欲しいと数百銭ずつを劉寵に持ち寄る。劉寵はそれぞれから一枚ずつを受け取り、残りは返却した。

 後漢章帝しょうていの次代、しょくに派遣された廉范。当時蜀では火災防止のため夜の仕事を禁じていたのだが、「なら火消し用の水用意しときゃええやん」とルールを改正。おかげで蜀の民はだいたい二、三枚しか持てていなかった袴を五本持つほど裕福になれたという。

 民を繁栄させた名地方官。

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