03-03-03 漢八 和帝・殤帝

 和帝わてい、名はは「劉肇りゅうちょう」。母は「りょう氏」だが、「とう皇后」が自らの子として迎え入れた。88 年に 10 歲で即位したため竇太后が代理の政務紗として臨朝した。


 竇太后の兄、「竇憲とうけん」は外戚であったため侍中となって権勢を振るった。しかしやりすぎて罪人となった。竇憲は北匈奴きたきょうどに出撃して功績を挙げ贖罪の代わりとしたい、と申し出た。太后も申し出を承認。出撃した竇憲は匈奴を大破、燕然えんぜん山に登り、山頂にあった巨石に功績を刻み、帰還した。功績から大将軍となった。


 92 年、竇憲とその息子が朝廷入りし、みな大権を握ると、やがて謀反を企みはじめる。和帝はそれを感知すると宦官の「鄭衆ていしゅう」と相談し、兵を集めて竇憲の元に派遣し。大将軍の印綬を没収の上自殺を命じた。以降竇太后は鄭衆に大なく小なく政務についての相談をするようになった。

 宦官の権力が高まるのは、これ以降である。


 和帝は在位 18 年で死亡した。太子が立った。「殤帝しようてい劉隆りゅうりゅうである。生後百日あまりで即位、八か月ほどして死亡した。皇太后のとう氏が臨朝、鄧隲とうしつとともに後継者を定めた。「安帝あんてい」である。



蒙求もうぎゅう

蘇武持節そぶじせつ 鄭衆不拜ていしゅうふはい

 前漢武帝の命を受けて匈奴きょうどに和親の使者として赴いた蘇武そぶはそのまま匈奴に捕らわれ、匈奴の地に暮らすよう迫られた。しかし最後まで漢への忠誠を貫き通した。壮年のときに匈奴に赴き、漢の土を再びふむときには髪が全て白くなっていたという。

 後漢明帝めいていの時代、使者として匈奴のもとに赴いた鄭衆ていしゅう。単于より拝礼するよう迫られるも拒否。単于が怒るも、それに対して一切引くことはなかった。のちに匈奴から漢に使者がもたらされたとき、匈奴の使者は「あの人の胆力は蘇武にも引けを取りませんよ」と語った。

 単于に対し堂々たる態度を貫いたふたりの使者。

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