03-01-07 漢六 光武帝劉秀 7

 赤眉せきびの「樊崇はんすう」らは当時十五才の漢系宗族「劉盆子りゅうぼんし」を皇帝に立てた。とは言え本人は牛や羊を従わせ、ざんばら頭で裸足、ぼろを着て赤ら顔には緊張のためか汗を大いに流していた。人々の前に担ぎ出されることで恐れおののき、泣き出しそうになっていた。

 そうして赤眉軍は長安ちょうあんに乱入、更始帝こうしていは逃亡した。そのさなか、光武帝こうぶていにはしょう王から淮陽わいよう王に転封する旨の詔勅が下された。


 えん人の「卓茂たくも」は前漢の時代にみつの県令として働き、その統治によって道にものが落ちていても誰も拾わないほどになっていたが、王莽おうもうによって罷免されていた。そこで光武帝は卓茂を探しだして太傅に任じ、褒徳ほうとく侯に封じた。


 光武帝は洛陽らくよう入りすると洛陽を都に定めた。


 関中かんちゅうの争乱はいまだ治まっておらず、鄧禹とううは軍を率いて西進する。百万の軍を号し、到着した先々で漢の旗を立て、人々をよく労った。土地の老人たちはみな鄧禹のもとにやってきては喜び、その名は関中に大きく轟いた。やがて栒邑じゅんゆうに到着すると、そこでしばらく留まることにした。

 赤眉の賊が大いに略奪を働いて一度長安から出たところで、鄧禹が長安入りする。すると赤眉が引き返してきて戦いとなり、鄧禹が敗北した。光武帝は鄧禹を洛陽に引き返すよう命じる、代わりに馮異ふういに関中平定に向かわせた。

 鄧禹は功績を立てられなかったことを恥じ、馮異と合流するとともに赤眉軍を攻める。しかし回溪かいけいでの戦いに再び敗北。散り散りとなった兵を集めて砦を築き、体勢を立て直したあとに崤底こんていにて再戦し、今度こそ打ち破る。

 光武帝は馮異に璽書じしょを下して、その功績を労った。

「はじめ回溪に足を伸ばしてみて、ついには澠池べんちにて雄飛が叶った。朝の失敗を夕方に取り戻した、というわけだな」

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