03-09 三国統一

03-09-01 漢二 司馬昭 下

 しょくからの攻撃に業を煮やしていた司馬昭しばしょうは、遂に蜀討伐の軍を起こした。鄧艾とうがい鍾会しょうかいを派遣し進軍させる。鍾会は斜谷道やこくどう駱谷道らくこくどう子午谷道しごこくどうからそれぞれ軍を進め漢中かんちゅう入りした。鄧艾は狄道てきどうから甘松かんしょう沓中とうちゅうを進み、姜維きょういを牽制した。

 姜維は鍾会がすでに漢中入りしたことを聞くと、すぐに兵を引き沓中とうちゅうから帰還しようとする。そこに鄧艾の追撃がかかり、姜維は敗走。剣閣けんかくまで退き、鍾会への守りを固める。

 姜維から自由になった鄧艾は陰平いんへいを進む。無人の地を進むこと 300km 弱、切り立った山を切り開き、深き崖には橋を掛ける。また谷間に差し掛かると、鄧艾はその身を毛布にくるみ、転がり落ちる。こうした振る舞いを見て、将軍や兵士たちもまた木や崖をよじ登り、さながら魚の群れかのように突き進んだ。

 江油こうゆに差し掛かると、近隣を守る蜀将の「諸葛瞻しょかつせん」を書面にて挑発。諸葛瞻は書をもたらした使者を切り捨て、綿竹めんちくにて陣を敷き迎撃を試みるも、大敗。戦死した。その結果を受け、諸葛瞻の息子である「諸葛尚しょかつしょう」は言う。

「我ら親子、お国よりの御恩をその身に担ってきた。早々にあの奸物、黄皓こうこうを斬らなかったがために、国破れ民が虐げられることとなったのだ! これ以上生きていて何ができようか!」

 そして馬にむち打ち敵陣に突っ込み、死んだ。


 鄧艾が成都に着くと劉禅りゅうぜんは降伏。ここに蜀は滅んだ。この功績から司馬昭は改めて九錫を受け、晉王しんおうに進んだが、間もなくして死亡した。

 子の司馬炎しばえんがそのあとを継ぎ、すぐさま曹奐そうかんより禅譲を受けた。


 曹奐の在位は 6 年。位を退いた後は陳留ちんりゅう王となった。

 曹丕そうひが魏を興してより、皇帝は五人。46 年間の治世であった。


 蜀漢しょくかん滅亡ののち、司馬炎が皇帝に立つまでの一年間、天下には正統な王がいなかった。



蒙求もうぎゅう

桓溫奇骨かんおんきこつ 鄧艾大志とうがいだいし

 東晋を代表する名将、桓温。その面持ちは常人ならぬ相であったという。

 職官を滅ぼす郡公を上げた、鄧艾。彼は貧しい少年時代から大志を抱いていたという。

 軍功を上げた名将は、若い頃からヤバい。

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