03-01-18 漢七 馬援 上

 臣下たちのうち、馬援ばえんが死んだ日についてのみ光武帝こうぶていよりの恩賜がもたらされなかった。


 馬援はかつて言っていた。

「大丈夫たるもの戦場にて死に、屍を馬革の裹にくるまれたいもの。どうして女子供の手を取って死ねようかよ」


 交趾こうしが反旗を翻すと、馬援は伏波将軍として討伐、平定した。武陵蠻ぶりょうばんが反すると馬援はまた出征したいと申し出てきたが、光武帝は馬援が老いていたことを理由に却下した。すると馬援は鎧を着、馬に乗り、まだまだ働けますぞと主張。光武帝はそれを見て笑い、言う。

「矍鑠ですな、ご翁」

 そうして出征を許可した。



蒙求もうぎゅう


伏波標柱ふくはひょうちゅう 博望尋河はくぼうじんか

馬瑗(後漢)&張騫(前漢)

 後漢初期の伏波将軍、馬瑗ばえんは老いてなお南方の蛮夷を伐たんと出征。本人は暑さにたたられて死亡してしまうのだが、南方に柱を立て、後漢の南方への支配拡大の証を示した。

 前漢武帝の時代、張騫ちょうけん博望はくぼう侯に封じられた。武帝に命じられ西方に出立、多くの国との通商交渉をなし、その足跡はついに黄河こうがの河源にまで至った、とされる。

 漢の版図を大きく押し広げた二人の足跡。


王陽囊衣おうようのうい 馬援薏苡ばえんよくい

王陽(前漢)&馬援(後漢)

 琅邪ろうや王氏の祖とも言える前漢昭帝しょうてい時代の名士王吉おうきつ、あざな子陽しよう。その子や孫は大官にいたり豪奢を極めたのだが、彼らの立身の礎を築いた王吉自身は常に慎ましさを維持していた。人々はかれが子孫のための黄金を作った、と讃えた。

 後漢光武帝こうぶていを補佐したことで知られる馬援は北ベトナム方面に赴任し、そこで多くの珍宝を見出したものの、持ち帰ったのは土地特産の木の実のみであった。

 下手な蓄財を避けることによりかえって栄誉を後世に残したふたり。



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