03-01-19 漢七 馬援 下

 これより前、光武帝こうぶていの娘を娶った「梁松りょうしょう」が馬援ばえんのもとに訪問、下座から丁寧に拝礼した。一方の馬援は梁松の父と旧交を結ぶ間柄であったため、返礼をなさなかった。梁松はこの対応に不満を抱いた。


 馬援が交趾こうしに赴くにあたり、兄の子に戒めの書をしたためていた。

「吾はお前たちが人の過ちを聞くことがあっても、父母の名を聞くがごとく遠ざけるよう振る舞うことを望む。それは聞かざるを得ないにせよ、口には出しようもないものだからである。人の長短やまつりごとの是非をああのこうのと語るようなことが、我が子孫にはあってほしくはないのだ。

 例えば龍伯高りゅうはくこうは人情に厚く、慎ましく、出しゃばらず、節約家だ。吾は彼を愛おしみ、重んじている。お前たちが彼の振る舞いを見習ってくれるよう望む。

 また杜季良ときりょうは豪俠にして義を好み、人の憂いや人の楽しみを同じくできるお方。彼の父が亡くなったときには多くの人が弔いに赴いた。それこそ数郡に至ろうか、という人数だ。吾は彼を愛おしみ重んじる。しかしお前たちに、彼を見習えとは言えない。

 龍伯高の真似をしきれずとも、慎ましく誠実な人にはなれるものだ。しかし杜季良を真似しきれないでいた場合、それは天下の軽薄者と見られてしまうものだ」


 杜季良とは「杜保とほ」のことである。あるとき杜保を恨むものが馬援の手紙を根拠とし、杜保を訴えた。これにより杜保は免官となり、また杜保と交際のあった梁松も危うく連座させられるところであった。このため梁松はますます馬援を恨むようになった。


 このタイミングで馬援は壺頭ことうにて敗北、馬援も陣中で死亡した。梁松はここぞとばかりに光武帝に馬援を誣告。光武帝もそれを信じ、新息侯の印綬を取り上げてしまった。


 以前、馬援が交趾に赴いたとき、常に薏苡よくいの実を飲むことで身が軽くなり、南方の風土病にも負けずにすんだため、帰り際には車いっぱいに薏苡の実を積んでいた。後に誣告する者は、馬援が南方から車いっぱいに積んで持ち帰ってきたのが宝玉だと偽った。これに余り光武帝はますます怒ったのだが、「朱勃しゅぼつ」による弁明がなされ、光武帝もようやく我に返るのだった。

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