03-11-06 三晋 劉淵 上

劉淵りゅうえん」が左国城さこくじょうに興った。


 劉淵、南匈奴みなみきょうどの末裔である。匈奴は漢魏かんぎの時代には臣下としての態度を示していたが、「我らの先祖は漢帝の族弟である」と自称、漢の国姓「劉」を冒したのである。

 父の「劉豹りゅうひょう」は五つに分けられていた匈奴のうち左部さぶの長に任じられていた。その息子であった劉淵は幼いころからずば抜けた聡明さを示しており、広く経典や史書に学び、かつてこのようなことを言っていた。


「私は学者の隨何ずいか陸賈りくかに武がなかったために劉邦りゅうほう様の元で地方長官となれるほどの功績を挙げられなかったことを、また武人の周勃しゅうぼつ灌嬰かんえいに学問の心得がなかったせいで文帝ぶんていの元で学問振興の潮流に乗りきれなかったことを恥ずかしく思うのだ。どうしてこれらを惜しまずにおれようか」


 こうした発言もあり文武どちらにも打ち込んだ。その姿は魁偉であった。


 はじめ匈奴左部の人質として洛陽に留め置かれが、劉豹が死亡すると、武帝は劉淵を左部どころではなく、匈奴五部すべての長に任じた。また北部都尉ほくぶといにも任じており、匈奴五部の豪傑たちはみな劉淵の元に帰服していた。

 恵帝の治世下にあっては五部大都督に任じられていたが、司馬穎の取りなしによってさらに左賢王とされた。将兵を与えられ、鄴に駐屯したこともあった。


 劉淵の子の劉聡もまたその武力がずば抜けており、やはり経典や史書に通じ、文才にも長け、弓を引けば三百斤(めちゃくちゃ硬い)を易々と引いた。

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