03-11-05 三晋 八王の乱 下
これに対抗する動きが現れた。
対する司馬穎も兵を繰り出し、両軍は
このとき恵帝自身も軍中にあったのだが、あわや斬り殺されるかと言うとき、
飛び散る嵆紹の血が、恵帝の服を濡らす。司馬穎は恵帝を捕らえ鄴にまで引っ立てた。このとき側仕えたちは血のついた服を洗うべきと勧めたが、恵帝は首を振る。
「これは嵆侍中が血ぞ、洗い流すわけには行かぬ」
司馬穎は恵帝を旗印に立て、今度は
司馬越は兵を再編し長安に進軍。恵帝を奪還すると、洛陽に帰還。恵帝の補佐としての地位を得た。
司馬穎は司馬越に押され洛陽から長安へと逃れていたのだが、さらに長安からも脱出して南下、
なお恵帝は食事中毒に当たって死んだ。ある者は司馬越による毒殺である、と噂した。
恵帝は愚かであり、天下が飢えに苦しんでいるときに「何故肉粥を食べぬのだ?」と問うことがあった。
また
「きっとおまえはそのうち草むらの中に打ち捨てられることになるのだろうな」
※さすがに一切補完しないのはひどすぎるのでちょっと付言しておきます。この流れだとなんで司馬穎が弱体化したのか一切分りません。実は司馬穎、次話以降で出てくる五胡の第一人者、
西晋の名士鄧攸は東晋への亡命道すがら窮地に立たされ、つれていた兄の子と自らの子のどちらかを捨てねばならない、と言うときに兄の子を選んだ。子はまた作れるから、とのことである。しかしその後子に恵まれなかった。
竹林七賢嵆康の息子、嵇紹。父が刑死するとき、嵇紹に向けて「そなたには山濤殿がおる、決して孤児になることはない」と語った。なおその嵆康は山濤からら官吏に取り立てたいという申し出を受けて絶交状を叩きつけ、そのことがもとで収監されている。
父と子のただならぬ関係。
暗愚の象徴として知られる晋の
暗愚な君主は、亡国を招く。
西晋の衛瓘と索靖はともに書道の達人。そこで両名は「二妙」と通称された。
同じく西晋の潘岳と夏侯湛。ふたりはともに文筆で名を知られ、かつふたりが並ぶとイケメン祭となるため「璧玉が連なる」と通称された。
西晋はえろうすごいお方ばかりどすなー。
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